真言宗醍醐派

真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)は、日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。

総本山は醍醐寺。修験道の一派、当山派の中心でもある。
宗祖 弘法大師
派祖 理源大師(聖宝)
中興 義演准后

法流
三宝院流憲深方
恵印法流

宗紋
五七桐(慣用で使用)

沿革

真言宗醍醐派の歴史は醍醐寺の開創に始まる。聖宝が如意輪観音・准胝観音を彫刻して深雪山山上に祀ったことが醍醐寺の起源となった。醍醐天皇・朱雀天皇が誕生されるに当って、皇室より聖宝に対して祈祷の依頼があり、無事に出産、誕生されたために、皇室の帰依を得るようになった。この後より、伽藍の整備が整い、現在の醍醐寺の基礎が確立した。
平安時代、摂関政治が隆盛を極めるころには、皇室の保護が薄くなった。院政期になると、醍醐天皇系統の宇多・村上源氏が財政的・人事的にも醍醐寺を護持する中心となり、伽藍・諸堂の拡充、醍醐寺座主を輩出することになった。
真言宗の事相(真言密教の儀礼・実践方法)の法流の一つである小野流の研究が盛んであった。事相研究のなかで、特に図像研究においては、中心寺院として知られていた。
応仁の乱では伽藍の多くを失い、衰微した時期があったが、当時の座主であった義演が豊臣氏と友好的な関係であったため、豊臣氏が財政的な援助を行って伽藍を建立し、本格的な復興を果たした。
明治時代に入ると、政府に寺領・特権を返上して衰微したが、文化財保護が重要視されるようになり、伽藍の整備・寺宝の保護が図られた。
真言宗系修験道を支配する寺院であった。明治時代に修験寺院の廃止が決定すると、寺院内に恵印部を設けて、修験寺院の統制を行ったが、1919年(大正8年)には恵印部を廃し、修験寺院を末寺とすることになった。
1879年(明治12年)、東寺の傘下に入り、定額寺・大本山として、醍醐寺・三宝院がともに列したが、1905年(明治38年)には独立して、真言宗醍醐派を公称した。
太平洋戦争中に、政府の宗教政策により、古義真言宗と新義真言宗の合同が計られ、大真言宗に統合された。1946年(昭和21年)、大真言宗より独立し、真言宗醍醐派と公称して現在に至っている。

教義
古義真言宗の教義に準じる

参照Wikipedia

 

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