真宗三門徒派

真宗三門徒派(しんしゅうさんもんとは)は、浄土真宗の一派。本山は専照寺(福井県福井市みのり2丁目3-7)。

概要・歴史
真宗三門徒派の歴史は鎌倉時代後期に遡る。高田専修寺に属していた如道(如導)は正応3年(1290年)、越前大町(現・福井市大町)に大町専修寺を建立。親鸞長男善鸞の教えも導入した如道の教団は北陸地方でも大きな勢力をもち、応長元年(1311年)には京都本願寺の留守職覚如は存覚を随えて如道を訪ねている。この時如道は行如(越前田島、後の興宗寺)と共に覚如から教えを受け、如道は「教行信証」を伝授されている。また宗祖親鸞聖人の鏡御影(かがみのごえい)も開帳するなど覚如が教化に務めたこともあり、如道は一時期本願寺系となっていた。
如道の教えは、親鸞作の「三帖和讃」を重視したことから讃門徒とも呼ばれた。このことは逆に、法然門下の特徴である「浄土三部経」や「六時礼讃」を軽んじているとされ、天台宗長泉寺の孤山は「愚闇記」で痛烈に批判している。(後に如道は「愚闇記返札」で反論。)
如道没後、門弟の道性により横越に證誠寺(現在の真宗山元派本山)、如覚により鯖江に誠照寺(現在の真宗誠照寺派本山)を建立。更に第4世浄一が専修寺を専照寺と改称して三山が並び建ったことから、三門徒衆と称されるようになった。
戦国時代には北陸最大の勢力を誇ったが、配下の有力寺院の統率に欠けていたため、戦国大名への対応をめぐって門末の混乱が見られた。本願寺勢力とは北陸の主導権争いで常に緊張関係にあり、永正3年(1506年)には一向一揆と対峙した朝倉氏に加勢し(九頭竜川の戦い)、逆に一向一揆農民から焼き討ちの報復を受けている。加賀一向一揆では織田軍についたが、大町専修寺が一揆指導者を匿ったため信長に滅ぼされている。鯖江誠照寺も天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家についたことから後に羽柴秀吉によって破却された。天正13年(1585年)には正親町天皇から朝廷の勅願所に命ぜられたが、既に有力寺院の多くが離脱しており、その勢力は完全に衰退していた。
江戸時代に入ってからは、末寺の多くも東西本願寺に鞍替えし、享保9年(1724年)には専照寺自体も天台宗の門末に属している。明治時代になって一時真宗大谷派に属したが、明治11年(1878年)、真宗三門徒派として独立した。
現在、傘下の寺院は40数か寺を数えるのみであるが、同じ高田派の流れを汲む證誠寺、誠照寺、毫摂寺と共に北陸の「四箇本山」を形成している。

参照Wikipedia

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