日蓮宗

日蓮宗(にちれんしゅう)は、
仏教の宗旨の一つ。法華宗とも称する。鎌倉時代中期に日蓮によって興され、かつては(天台法華宗に対し)日蓮法華宗とも称した。
仏教の宗派の一つ。
1872年(明治5年)、政策「一宗一管長」制に基づいて合同した日蓮門下の全門流の宗号。1874年(明治7年)、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ解散。
1876年(明治9年)、日蓮宗一致派が公称を許された宗号。

1941年(昭和16年)、三派合同により解散。
1941年(昭和16年)、三派合同により成立した現行の「宗教法人・日蓮宗」。

身延山久遠寺を総本山とする。

宗旨・日蓮宗の概要
開祖である日蓮の主要著作「立正安国論」のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。 本節では鎌倉仏教の宗旨日蓮宗(法華宗)の宗祖日蓮の教えならびに分派の大要を紹介する。

教え
法華経(妙法蓮華経)を釈迦の正しい教えとして選び、「南無妙法蓮華経」という題目をとなえること(唱題)を重視[14]。「南無妙法蓮華経」とは「法華経に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する[15]。

日蓮に対する天台教学の影響
日蓮は、天台の教観二門(教相門・止観門)を教学の大綱とし、
法華経に対しては天台智顗の本迹分文により、方便品の開権顕実、寿量品の開近顕遠を二門の教意とする。
二乗作仏と久遠実成を法華経の二箇の大事とする。
などは天台教学を踏襲するとともに、「法華経の行者」としての自覚と末法観を基調とした独自性を示した[16]。

末法観と法華経
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。 そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。そして法華経にとかれた
久遠本仏の常住
遣使還告の譬
勧持品二十行の偈文
等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。

 

参照Wikipedia

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