日蓮宗不受不施派

日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)は、日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派である。

宗祖 日蓮

派祖 日奥

祖山 妙覚寺
日蓮の不受不施義を遵守しようとする不受不施派は、幕府の不受不施派寺請禁止令により信徒を寺請することが出来なくなり、教団自体が非合法化されるなどの厳しい弾圧を受けた。

このような状況において教団は、法中(僧侶)、法立(不受不施信者)、内信(外見上他宗他派を装う信者)、という地下組織化の道をとり、教団の存続を図った。しかしそのような状況の中も教団内では、天和2年(1682年)頃備前、備中を中心とした地域において、外見上他宗他派を装う内信者と純粋な不受不施信者を同一に並べてよいか、法立が内信者のために法中の代わりに観経の導師を勤めてよいかということについて、論争が起こった。
この内紛は備州だけに止まらず不受不施派全体に及び、日向の佐土原に流刑中の日講と備前倉敷の津寺庵の日隆を中心とするグループは、生活基盤を確保して外見上平穏な生活をしている内信者と寺請してもらえず無宿者なっても浄い信仰を守っている不受不施信者をはっきり区別して、法立が導師をすることを認めないと主張した。このグループが津寺派(不導師派)と呼ばれ、本覚寺を本山とする不受不施日蓮講門宗の系統となった。
一方、讃岐に配流中の日堯と備前倉敷の日指庵の日通を中心とするグループは、佐土原に流刑中の日講を引き合いに出し、「流罪とはいえ命を狙われる心配もなく安穏な生活をしている日講には、絶えずビクビクして信仰を守っている内信者の気持ちは分るまい」(除講記)を草して反論した。このグループが日指派(導師派)と呼ばれ、妙覚寺を本山とする日蓮宗不受不施派の系統となった。
近年、厳密な意味での清僧(肉食妻帯しない出家僧)が、途絶えたという。

歴史
1595年(文禄4年)豊臣秀吉主催の千僧供養会に際し、京都妙覚寺・日奥は不受不施義を主張して出仕を拒否し、弾圧される。
1599年(慶長4年)徳川家康は不受不施派の京都妙覚寺・日奥と受不施派の京都妙顕寺・日紹を大阪城にて対論(大阪対論)させ、日奥は流罪となる。
1630年(寛永7年)徳川幕府は不受不施派の池上本門寺・日樹、中山法華経寺・日賢、平賀本土寺・日弘、小西檀林・日領、碑文谷法華寺・日進、中村檀林・日充と受不施派の身延久遠寺・日乾、身延久遠寺・日遠、身延久遠寺・日暹、藻原妙光寺・日東、玉沢妙法華寺・日遵、貞松蓮永寺・日長を江戸城にて対論(身池対論)させ、日樹、日賢、日弘、日領、日進、日充は流罪となる。
1666年(寛文6年)徳川幕府は土水供養令を発令し、野呂檀林・日講は不受不施義を講ずるものとして、日講は流罪となる。
1669年(寛文9年)徳川幕府は不受不施派の寺請を禁制とし、長く弾圧される。
1871年(明治4年)明治政府は寺請制度を廃止とし、禁制は解かれる。
1876年(明治9年)4月10日明治政府は日蓮宗不受不施派の再興を許可する[2]。
1941年(昭和16年)日蓮宗不受不施派(本山妙覚寺)と日蓮宗不受不施講門派(本山本覚寺)が合同して本化正宗と公称する。
1946年(昭和21年)本化正宗は分派し、日蓮宗不受不施派は妙法華宗、日蓮宗不受不施講門派は日蓮講門宗として、それぞれ独立する。
1952年(昭和27年)妙法華宗、名称を日蓮宗不受不施派に変更する。

参照Wikipedia

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