日蓮正宗

日蓮正宗

日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、日蓮を宗祖とし、派祖日興が開いた富士大石寺を総本山とする、富士門流に位置づけられる仏教の宗派である。

主要寺院
総本山
多宝富士大日蓮華山大石寺(たほうふじだいにちれんげざんたいせきじ、静岡県富士宮市)
本山
多宝富士山妙蓮寺(みょうれんじ、静岡県富士宮市)
高永山讃岐本門寺(ほんもんじ、香川県三豊市)
日向本山
日知屋山定善寺(じょうぜんじ、宮崎県日向市)
由緒寺院
多宝富士山下之坊(しものぼう、静岡県富士宮市)ほか

教義

奉安堂
本迹勝劣、日蓮本仏論を唱え、大石寺に伝えられる本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈を仏法の根本とする。

宗祖を本仏と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信じて題目を修行しさえするならば、どんな者でも必ず一生のうちに成仏できる、としている。

また、仏教各宗派によってさまざまな戒律が説かれているが、日蓮正宗における戒とは捨悪[注釈 3]と持善である。
経釈章疏は、法華三部経・宗祖遺文(『日蓮大聖人御書』)・派祖遺文・大石寺第9世日有遺文・大石寺第26世日寛遺文を正依とし、天台宗系統の摩詞止観10巻および弘決・法華玄義10巻および釈籤・法華文句10巻および疏記を傍依としている。
仏教の基礎である三宝は、以下のように説いている。

「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳、本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思の境智冥合、事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を随一とする歴代の法主上人が僧宝である。」[11][注釈 5]。多宝塔や釈迦・多宝如来、等の仏像の制作・崇拝は一切禁止されている。

沿革
1253年(建長5年)3月28日に立宗を内示され、4月28日に立宗を宣した。
近世までは大石寺#起源と歴史、富士門流#歴史を参照

明治
1872年(明治5年)、明治政府は仏教各派に対し天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗の七宗派に統合して各派から管長一名を設置するよう官布告を出した(一宗一管長制)。以後、大石寺とその末寺は、1872年(明治5年)から1874年(明治7年)には日蓮宗、1874年(明治7年)から1876年(明治9年)には日蓮宗勝劣派、1876年(明治9年)から1900年(明治33年)には日蓮宗興門派(1899年(明治32年)に本門宗と改称[16])に、それぞれ包括されていた。
この間、大石寺第54世日胤は、1873年(明治6年)に教部省へ「大石寺一本寺独立願い」を提出した[20]が容れらなかった[21]。 また、大石寺第55世日布は、分離独立を内務省に願い出るが、1884年(明治17年)の太政官布達により取り下げざるを得なくなる[22]。
一方、日蓮宗興門派(本門宗)の管長は八本山が一年任期の輪番制で務める運営形態となり、大石寺第55世日布が1881年(明治14年)から1882年(明治15年)にかけて第4代、大石寺第56世日応が1891年(明治24年)から1892年(明治25年)にかけては第15代に、それぞれ就任している[23]。1884年(明治17年)の興門八山会議において、「それ〔総本山〕は大石寺であり、血脈相承の嫡統連綿は大石寺の貫主職以外に無〔い〕」と大石寺は主張したが、他の七本山に受け入れられなかった。
1885年(明治18年)興門派八山は分離分派願いを内務省に提出するが、数か月後にはこれを取り下げた。しかしながら、このように数度にわたり政府へ願い出た結果、1900年(明治33年)大石寺第56世日応の代にいたり大石寺の分離独立が認可され、日蓮宗富士派と公称するに至った。
この直後より、「能く宗旨・宗体を表す」宗号の再検討が行われ、1912年(明治45年)6月7日、大石寺第57世日正の決定により、現在にいたる日蓮正宗という宗号が政府の認可のもと公称されることとなった。

昭和 (戦前)
昭和に入り宗教統制が行われる中[注釈 7]、宗教団体法[注釈 8]が1940年(昭和15年)に施行された。これに対し、日蓮正宗は1941年(昭和16年)3月10日、大石寺御影堂にて『僧俗護法会議』を開き、「本宗六百年来の伝統と信条を生かすために、不純なる合同は絶対に斥(しりぞ)けることで一決した」。これを受けて、大石寺第62世日恭は文部省宗務局長と面会し、合同反対と単独認可を訴えた。その結果、神嘗祭遥拝等の容認を条件に、3月31日付けをもって単独宗制の認可決定が出された。解散の覚悟まで迫られた末の独立維持は「日蓮正宗並びに大石寺が持つ底力の強さは、遺憾なく世間に知らしめることができた」ともいえる。このことは、昭和16年4月1日付けの朝日新聞「仏教の宗派は半減」「日蓮正宗(略)だけがそのまま一派として残った」からも読み取れる。

戦後
1990年(平成2年)には信徒数1,784万人を公称するに到る[50]。平成20年宗教年鑑に記載されている信者数は39万6000人となっている[51]。
1945年(昭和20年)
GHQの指令により宗教団体法廃止。
1946年(昭和21年)
讃岐本門寺(北山本門寺旧末)とその末寺10か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流[52]。
1950年(昭和25年)
下条妙蓮寺(旧本門宗本山、興門八本山の一つ)とその末寺6か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流[52][53]。
1956年(昭和31年)
妙泉寺(北山本門寺旧末)が、日蓮宗より離脱して日蓮正宗に合流。
1957年(昭和32年)
西山本門寺(旧本門宗本山、興門八本山の一つ)が、第49世由比日光の主導により、本山単独で日蓮宗より離脱し日蓮正宗に合流。塔中・檀信徒の反対派により、日蓮正宗との合併手続きの無効訴訟が起こされる。
保田妙本寺(旧本門宗本山、興門八本山の一つ)とその末寺4か寺、定善寺とその末寺5か寺が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流(保田妙本寺は後に離脱)[52][54]。
1958年(昭和33年)
妙国寺(定善寺旧末)が日蓮正宗より離脱して単立になる(1976年(昭和51年)日蓮宗に再所属)。
1960年(昭和35年)
本源寺(経王山、定善寺旧末)、忠正寺(下条妙連寺旧末)が、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に合流。
西山本門寺第49世由比日光逝去。日蓮正宗は由比日光の後継指名に基づき下条妙蓮寺の前貫主吉田日勇を後任に任命。
1974年(昭和49年)
妙信講(後の顕正会)を講中解散処分[55]。
1975年(昭和50年)
西山本門寺の裁判で最高裁判決。信徒側が勝利し、日勇は西山本門寺より退去。西山本門寺は日蓮正宗より離脱し単立寺院に。
1980年(昭和55年)
創価学会を宗門の教義や組織秩序をゆがめるものとして非難・批判してきた「正信覚醒運動」(正信会)の僧侶175人(日蓮正宗僧侶の3分の1に相当)を擯斥(僧侶資格剥奪)。日蓮正宗は擯斥処分した僧侶が住職をつとめる寺院に後任住職を派遣したが、それを拒否し、正信会住職のもと、日蓮正宗から独立した寺院が約150か寺(日蓮正宗寺院の4分の1に相当)あった。
1982年(昭和57年)
本顕寺(保田妙本寺旧末)は、正信会会員の住職が日蓮正宗より擯斥処分をうけ、日蓮正宗とは絶縁状態に。
住職が正信会会員として擯斥処分をうけた寺院が百数十か寺。その大部分は大石寺とともに日蓮宗富士派(日蓮正宗)の設立に参加した寺院や、富士派ないしは日蓮正宗の寺院として建立された寺院である。
1991年(平成3年)
組織としての創価学会を破門。
1993年(平成5年)
保田妙本寺とその旧末寺顕徳寺・遠本寺が、日蓮正宗より離脱して単立になる。
1998年(平成9年)
「宗規」一部改正。創価学会に所属する者を除籍。
大石寺第67世日顕の退座後、25か寺が正信会から日蓮正宗に復帰。
日蓮正宗へ合流・離脱については日蓮宗#近現代の動向、興統法縁会#7本山とその旧末寺の動向、興統法縁会#宮崎県内の興統法縁・日郷門流の諸寺院の動向、西山本門寺#歴史を、殯斥処分を受けた寺院についてはかつて日蓮正宗に属していた寺院一覧を参照

 

参照Wikipedia

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