3  文殊菩薩

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

梵名マンジュシュリー (梵: मञ्जुश्री , maJjuzrii)は、大乗仏教の崇拝の対象である菩薩の一尊。

一般に智慧を司る仏とされる。
文殊は文殊師利(もんじゅしゅり)の略称。

また妙吉祥菩薩(みょうきっしょうぼさつ)などともいう。

曼殊室利等とも音写し、妙吉祥、妙徳、妙首などとも訳す。

文珠菩薩とも書く。 三昧耶形は青蓮華(青い熱帯スイレンの花)、利剣、梵篋(ヤシの葉に書かれた経典)など。種子(種子字)はマン(maM)。

 

『文殊師利般涅槃経』によると、舎衛国の多羅聚落の梵徳というバラモンの家に生まれたとされる。

また一説に釈迦十大弟子とも親しく仏典結集にも関わったとされる。

『維摩経』には、維摩居士に問答でかなう者がいなかった時、居士の病床を釈迦の代理として見舞った文殊菩薩のみが対等に問答を交えたと記され、智慧の菩薩としての性格を際立たせている。

この教説に基づき、維摩居士と相対した場面を表した造形も行われている。
文殊菩薩はやがて『維摩経』に描かれたような現実的な姿から離れ、後の経典で徐々に神格化されていく。

釈迦の化導を扶助するために菩薩の地位にあるが、かつては成仏して龍種如来、大身仏、神仙仏などといったといわれ、また未来にも成仏して普見如来という。

あるいは現在、北方の常喜世界に在って歓喜蔵摩尼宝積如来と名づけられ、その名前を聞けば四重禁等の罪を滅すといわれ、あるいは現に中国山西省の清涼山(五台山)に一万の菩薩と共に住しているともいわれる。また『法華経』では、過去世に日月燈明仏が涅槃した後に、その弟子であった妙光菩薩の再誕が文殊であると説かれる。
なお、これらはすべて大乗経典における記述によるものであり、文殊菩薩が実在したという事実はない。

しかし文殊は観世音菩薩などとは異なり、モデルとされた人物が存在していたと考えられており、仏教教団内部で生まれた菩薩であると考えられている。
文殊菩薩が登場するのは初期の大乗経典、特に般若経典である。ここでは釈迦仏に代って般若の「空(くう)」を説いている。

また文殊菩薩を「三世の仏母(さんぜのぶつも)」と称える経典も多く、『華厳経』では善財童子を仏法求道の旅へ誘う重要な役で描かれるなど、これらのことからもわかるように、文殊菩薩の徳性は悟りへ到る重要な要素、般若=智慧である。

尚、本来悟りへ到るための智慧という側面の延長線上として、一般的な知恵(頭の良さや知識が優れること)の象徴ともなり、これが後に「三人寄れば文殊の智恵」ということわざを生むことになった。
過去世において、文殊菩薩は龍種上尊王仏という仏だったともされる。

また、すでに樹種上尊王仏という仏に成っているともされる。
文殊菩薩が、優填王、仏陀波利三蔵、善財童子、大聖老人(あるいは最勝老人=婆藪)の四尊ともに描かれた文殊五尊図は、中国・日本などでよく描かれた。
文殊菩薩の五使者として、髻設尼、烏波髻設尼、質多羅、地慧、請召、が挙げられる。 文殊菩薩の八童子として、光綱、地慧、無垢火、不思議、請召、髻設尼、救護慧、烏波髻設尼が挙げられる。
文殊菩薩の密号は、吉祥金剛、あるいは般若金剛とされる。
文殊菩薩を描いた主な経典には、文殊師利般涅槃経[1]、文殊師利問経、文殊師利浄律経、伽耶山頂経などがある。

また、文殊師利発願経[2]、文殊悔過経、文殊師利現宝蔵経、仏説文殊師利巡行記、妙吉祥菩薩所問大乗法羅経、千鉢文殊一百八名讃、大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼、聖者文殊師利発菩提心願文、文殊師利菩薩無相十礼などがある。

像容

普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍となる(参照:釈迦三尊)ほか、単独でも広く信仰されている。
文殊菩薩像の造形はほぼ一定している。獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ。密教では清浄な精神を表す童子形となり、髻を結う。この髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、それぞれ一=増益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされる。
また、騎獅の文殊、先導役の善財童子、獅子の手綱を握る優填王、仏陀波利、最勝老人を従える文殊五尊像も造形された。
また禅宗においては、修行僧の完全な姿を表す「聖僧」(しょうそう)として僧堂に安置され、剃髪し坐禅を組む僧形となる。この場合、文殊もまた修行の途上であるとの観点から、菩薩の呼称を避け文殊大士(だいし)と呼ぶことがある。
日本における作例としては、奈良の興福寺東金堂の坐像(定慶作、国宝)や安倍文殊院の五尊像(快慶作、国宝)、高知の竹林寺の五尊像(重要文化財)などが見られる。

受容
中国の娯楽小説『封神演義』には普賢真人、文殊広法天尊という仙人が登場しており、彼等が後に仏門に帰依しそれぞれ普賢菩薩、文殊菩薩となったという設定になっているが、これは後世の全くの創作である。
中国においては、山西省の五台山が文殊菩薩の住する清涼山として古くより広く信仰を集めており、円仁によって日本にも伝えられている。
また中国天台宗系の史書である『仏祖統紀』巻29には、「文殊は今、終南山に住み給えり。杜順和上はこれなり」と、中国華厳宗の祖である杜順を文殊菩薩の生まれ変わりであるとしている。
清の皇帝はチベットからは文殊菩薩の化身と見なされていた。清の支配民族である満洲人の民族名となったマンジュは、よくサンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来すると言われているが、実際は不明である。元来は16世紀までに女真と呼ばれていた民族のうち、建州女真に分類される5部族(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。岡田英弘はダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを乾隆帝が利用したことから文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。[3]。

平安時代初期に、勤操や泰善らの僧侶が文殊菩薩の法要と貧者や病者のための施しを行う「文殊会」を始め、最初は私的な催しだったものが、朝廷の援助を得るようになり、828年7月、太政官符によって文殊会を行うようになった。 毎年七月八日、朝廷が一定の税収から文殊会の費用を拠出し、東寺・西寺を中心に盛んに行われ、貧者や病者に対する布施が盛んになされた。 このことは、日本の福祉の歴史においても重要な一幕と言えるが、律令国家の没落とともに文殊会も衰退し、やがて行われなくなった。 それを鎌倉時代に復興したのが、西大寺の叡尊・忍性らであった。
鎌倉時代、真言律宗の僧叡尊・忍性は深く文殊菩薩に帰依し、1240年以後、各地で文殊供養と大規模な非人布施を行った。

参照Wikipedia

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