3  迦葉(かしょう)

大迦葉(だいかしょう、Mahā-ka-śyapa)は釈迦十大弟子の一人。仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めた。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。
摩訶迦葉、摩訶迦葉波、迦葉、迦葉波とも呼ばれる。なお迦葉は古代インドではありふれた名であったといわれ、仏弟子中には三迦葉という三人兄弟や十力迦葉という名前も見受けられるが、摩訶迦葉とは別人である。

生涯
生い立ち等、伝説が多く、諸説ある。
彼の諸説あるうちの一つによれば、マガダ国の王舎城付近の摩訶波羅陀(マハーハーダラ)村のバラモンである尼拘律陀羯波(ニグローダ・ゴーパ)の子で、畢鉢羅樹(ピッパラ=菩提樹)の下で生まれたので、幼名を畢鉢羅耶那(ピッパラヤナ、ピッパリ)といった。
八歳でバラモンに入門し修行してすべてを得たが、さらに出家して求道したいと考えていた。二十歳の頃に家系が途絶えるのを恐れた両親は、彼に結婚をすすめたが、清浄な生活を送りたいと一度断るも断りきれず、彼は工巧に金の美しい女人像を造らせて、これと同じならばその人と結婚しようと条件を出した。困った両親は八人のバラモンに探すように頼んだ。
彼らがマッダ国のサーガラ川岸の沐浴場で像を載せた台車を置いて休んでいた所、跋陀羅迦毘羅耶(バッダー、バドラー・カピラーニ、漢訳で妙賢)の乳母が、その像を見て彼女と見間違えたことから縁談がまとまった。しかし彼女はまだ十六歳で、彼女自身も出家したいと考えていたので、迦葉も彼女も使者に手紙を遣わして結婚を断るように要請したが、お互いの使者が道で出会い、後々の事を考え破り捨てた。
迦葉は浮浪者に身をやつして彼女の家に行き、互いに同じ出家の意志がある事を確認すると、それを承知の上で結婚した。彼らは床も離れて寝たので12年間、子供もなく過ごしたが、迦葉の両親が亡くなったある日、畑仕事を見ていて土中から出てきた虫が鳥に食べられる光景を目撃し、世の無常を感じた。彼女も同じく胡麻を乾燥していると多くの虫がおり、このまま油を絞ると殺生すると思い、共に出家を決意した。 多くの人が引き止める中、剃髪して粗衣に着替え鉢を持って出家したが、ある分かれ道でこのままでは私情に流されるとして、迦葉は右へ、彼女は左へと分かれたという。
迦葉は出家してもバラモンの修行をしていたが、王舎城と那茶陀(ナーダダ)村の間にある一本のニグローダ樹下に坐していた釈迦と出会い、ついに仏弟子となり名前を正式に迦葉と改め竹林精舎に到った。
釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられる。[要出典]

参照Wikipedia

下の画像は現在の木彫曼荼羅の進行状態です。

 

 

両界曼荼羅

mandara zentai

 左 金剛界八十一尊曼荼羅 

 右 大悲胎蔵生大曼荼羅

 

動画

 

 

 

金剛界八十一尊曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅の制作

 

私が曼荼羅の事を意識したのは、私の先生が曼荼羅を納める

所を間近でみてきたことが一番大きい。

 

近い距離で曼荼羅を見ると想像以上に、見応えがあります。

宗教心はおそらく関係ない、そして知識も関係ない、ただその

場で見せてもらうだけで、あまりの高貴さと迫力に圧倒されて

しまいます。

 

まず最初に仏様の数にびっくりしました。

 

尊像数

金剛界八十一曼荼羅 81体 胎蔵界曼荼羅

412体 合計493体

 

わたしがこれから開始する浮き彫りの曼荼羅はあまりする人が

いません

非常に長い長い 道のりの彫刻になることは間違いがありません。

 

作業年数でいえば5年ぐらいみておかなければいけない、人に言

ってしま えばやめるにやめれない、きっと出来上がったら魅力的

な彫刻だろうと は思う、やはり人と同じものを作っていてもあま

り、刀が乗らない。

 

私は精神論はできるだけ控えて作業に取りかかりたいと考えてい

ます。

そういうことで少し物足りないこともあるかもしれません。

れから始まる長い長い道のり、今から取り組む作業は仕事では

ないの でもしかしたら私がその前にギブアップするかもしれませ

んが。(>_<)

 

一日に一体、彫ることが難しいので最短でも2年以上はかかると考

えてい ますので、4〜5年ぐらいかなと考えております。

れだけ意気揚々と曼荼羅を浮き彫りで彫ると書いては見たものの

、実 は曼荼羅の事を詳しく知っているわけでもなく、制作しながら

一尊一尊 を確認しての取り組みになります。

では、早速取り掛かります。

 合掌

1. 木彫曼荼羅の開始

2. 曼荼羅の方位

3. 曼荼羅一尊の彫刻の彫進め方

4. 曼荼羅の仮づけ

5. 曼荼羅と善無畏