2   達磨大師

菩提達磨(ぼだいだるま、梵: बोधिधर्म , bodhidharma, ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。

達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。

「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるがいわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば宋_(南朝)の時代(遅くとも479年の斉_(南朝)の成立以前)に中国にやって来たとされている。

中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。

確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。

生涯
「ダーマ」とも。菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。

南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す
このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。

ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。
〈永寧寺塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮所(諸仏の国)にも無い也、極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。
永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。(洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条))
また、『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を伝えるとされている。
普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。
『景德傳燈錄』第三巻
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り
武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って[1]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[2]
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[3]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[4]。
その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

影響

白隠慧鶴筆『達磨図』
達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。
禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは縁起物として現在も親しまれている。

注・出典
^ この伝説もまた、慧可と曇林が盗賊に臂を斬られたという唐高僧伝のエピソードからの潤色と水野弘元などは指摘する。
^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十九章を参照。
^ 大川普済『五灯会元』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。成尋『参天台五台山記』によると太和19年(495年)10月5日入滅であるが、それより後年にも活動していた記述があり、信憑性にはやや問題がある。
^ 道元『正法眼蔵』第二十五「渓声山色」、瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」を参照。

参照Wikipedia

下の画像は現在の木彫曼荼羅の進行状態です。

 

 

両界曼荼羅

mandara zentai

 左 金剛界八十一尊曼荼羅 

 右 大悲胎蔵生大曼荼羅

 

動画

 

 

 

金剛界八十一尊曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅の制作

 

私が曼荼羅の事を意識したのは、私の先生が曼荼羅を納める

所を間近でみてきたことが一番大きい。

 

近い距離で曼荼羅を見ると想像以上に、見応えがあります。

宗教心はおそらく関係ない、そして知識も関係ない、ただその

場で見せてもらうだけで、あまりの高貴さと迫力に圧倒されて

しまいます。

 

まず最初に仏様の数にびっくりしました。

 

尊像数

金剛界八十一曼荼羅 81体 胎蔵界曼荼羅

412体 合計493体

 

わたしがこれから開始する浮き彫りの曼荼羅はあまりする人が

いません

非常に長い長い 道のりの彫刻になることは間違いがありません。

 

作業年数でいえば5年ぐらいみておかなければいけない、人に言

ってしま えばやめるにやめれない、きっと出来上がったら魅力的

な彫刻だろうと は思う、やはり人と同じものを作っていてもあま

り、刀が乗らない。

 

私は精神論はできるだけ控えて作業に取りかかりたいと考えてい

ます。

そういうことで少し物足りないこともあるかもしれません。

れから始まる長い長い道のり、今から取り組む作業は仕事では

ないの でもしかしたら私がその前にギブアップするかもしれませ

んが。(>_<)

 

一日に一体、彫ることが難しいので最短でも2年以上はかかると考

えてい ますので、4〜5年ぐらいかなと考えております。

れだけ意気揚々と曼荼羅を浮き彫りで彫ると書いては見たものの

、実 は曼荼羅の事を詳しく知っているわけでもなく、制作しながら

一尊一尊 を確認しての取り組みになります。

では、早速取り掛かります。

 合掌

1. 木彫曼荼羅の開始

2. 曼荼羅の方位

3. 曼荼羅一尊の彫刻の彫進め方

4. 曼荼羅の仮づけ

5. 曼荼羅と善無畏