3  金剛智三蔵

金剛智(こんごうち、skt:Vajrabodhi、669年 – 741年)は、音訳では跋日羅菩提といい、中国密教の祖師であり、開元三大士の一人である。主に『金剛頂経』系の密教を伝えた。真言八祖の中では、「付法の八祖」で第五祖、「伝持の八祖」では第三祖とする。

生涯
インド
金剛智は、南インドの摩頼耶国の人で、バラモン種の生まれである。10歳の時にナーランダ寺に入り出家した。寂静智の下で声明を学んだ。15歳の時に西インドに遊方し、4年間かけて法称論師の因明に関する著作を学び、ナーランダ寺に戻った。20歳の時に具足戒を受けた。
その後6年間、大乗・小乗の各種の戒律を学び、『般若灯論』『百論』『十二門論』等の論書をも学習した。28歳の時、カピラ城に向かい、勝賢論師に就いて『瑜伽師地論』『唯識論』『弁中辺論』を学んだ。
3年を経て31歳の時、南インドに向かい、龍樹菩薩の弟子である龍智に就いて、7年の間師事し、龍智の下で『金剛頂瑜伽経』『毗盧遮那総持陀羅尼法門』等の密教の経典を学んだ。また、各種の五明の論書をも学び、並に五部灌頂を受けた。顕密の奥旨に達した金剛智は、師父である龍智の下を辞して、中インドに戻った。
その後、南インドが大旱魃に陥った時、その国王の求めに応じて、金剛智は再び南インドを訪れ請雨を行なった。その後、国王は金剛智のために寺院を建立した。3年後、金剛智はスリランカに向かい、仏跡を巡拝した。戻った後、東方に向かう準備を始めた。
中国
南インドの国王は使者を派遣して金剛智を護送させ、並に数多の経典や梵夾、数多の珍宝を携えさせた。海路よりスリランカ・ジャワ等、20余国を経て、艱難辛苦の果て、3年を経て、719年(開元7年)に、遂に広州に到達した。時の節度使は数百艘の船を派遣して出迎えた。
翌年(720年)の初め、東都洛陽に到達した。その後、両京で伝教につとめた。前後して大慈恩寺・大薦福寺・資聖寺などの大寺で、或いは壇場を建立し、或いは経典を翻訳し、また、四衆を化導した。
741年(開元29年)、帰国を思い立ったが病いに倒れ、洛陽で没した。諡は大弘教三蔵。743年(天宝2年)、西龍門に塔を建立した。

訳著
『金剛頂瑜伽中略出念誦経』(即ち『瑜伽念誦法』)4卷
『七俱胝仏母准提大明陀羅尼経』(即ち『七俱胝陀羅尼』)1卷,
『曼殊室利五字心陀羅尼』1卷
『観自在瑜伽法要』1卷
『金剛頂経瑜伽修習毗盧遮那三摩地法』1卷
『千手千眼観世音菩薩大身咒本』1卷
『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心』1卷
『陀羅尼咒本』1卷
『不動使者陀羅尼秘密法』1卷

法嗣
不空金剛
大興善寺沙門一行

参照Wikipedia

下の画像は現在の木彫曼荼羅の進行状態です。

 

 

両界曼荼羅

mandara zentai

 左 金剛界八十一尊曼荼羅 

 右 大悲胎蔵生大曼荼羅

 

動画

 

 

 

金剛界八十一尊曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅の制作

 

私が曼荼羅の事を意識したのは、私の先生が曼荼羅を納める

所を間近でみてきたことが一番大きい。

 

近い距離で曼荼羅を見ると想像以上に、見応えがあります。

宗教心はおそらく関係ない、そして知識も関係ない、ただその

場で見せてもらうだけで、あまりの高貴さと迫力に圧倒されて

しまいます。

 

まず最初に仏様の数にびっくりしました。

 

尊像数

金剛界八十一曼荼羅 81体 胎蔵界曼荼羅

412体 合計493体

 

わたしがこれから開始する浮き彫りの曼荼羅はあまりする人が

いません

非常に長い長い 道のりの彫刻になることは間違いがありません。

 

作業年数でいえば5年ぐらいみておかなければいけない、人に言

ってしま えばやめるにやめれない、きっと出来上がったら魅力的

な彫刻だろうと は思う、やはり人と同じものを作っていてもあま

り、刀が乗らない。

 

私は精神論はできるだけ控えて作業に取りかかりたいと考えてい

ます。

そういうことで少し物足りないこともあるかもしれません。

れから始まる長い長い道のり、今から取り組む作業は仕事では

ないの でもしかしたら私がその前にギブアップするかもしれませ

んが。(>_<)

 

一日に一体、彫ることが難しいので最短でも2年以上はかかると考

えてい ますので、4〜5年ぐらいかなと考えております。

れだけ意気揚々と曼荼羅を浮き彫りで彫ると書いては見たものの

、実 は曼荼羅の事を詳しく知っているわけでもなく、制作しながら

一尊一尊 を確認しての取り組みになります。

では、早速取り掛かります。

 合掌

1. 木彫曼荼羅の開始

2. 曼荼羅の方位

3. 曼荼羅一尊の彫刻の彫進め方

4. 曼荼羅の仮づけ

5. 曼荼羅と善無畏