鞍作止利(止利仏師)

鞍部一族、

仏師への華麗なる転身

都会の一等地には多くのお店が店舗を構え、

最先端のファッションの先頭をきってラグジ

ュアリーブランドが立ち並んで、街行く人た

ちの心を魅了しています。

その中でもエルメスは名実ともに一線を画し

た存在として、悠々として構えて存在してい

ます。

エルメスは元々馬具専門として、1837年

初代ティエリ・エルメスが馬具工房を開きま

した。

その後、自動車が一般化していくにつれ馬具

の制造から私たちがよく目にする、高級バッ

グを中心にそれまで培われてきた馬具の制造

技術を利用して現在まで輝き続けています。

また男性中心のブランド・ダンヒルも188

0年に馬具専門制造卸売業としてロンドンで

創業、後に馬から車へ人々の交通手段が変化

するにつれ小物や衣類など様々な種類のもの

を手がけるようになりました。

 

法隆寺釈迦三尊像の大きな舟形光背(仏像の

背面から出ている板)の裏面の刻印に釈迦三

尊像を司馬鞍部首止利仏師に命じた、とあり

ます。

 

この鞍部とあるように止利仏師こそ元々、馬

具専門として活躍していた止利工房の長です。

 

私は、そういう経緯から馬具に対して少し興

味をもってみていました。

馬具というのは総合芸術といえるぐらい、非

常にたくさんの技術がつぎ込まれています。

金属加工、皮の細工、木の細工、布の細工・・

その中でも金属や木を自在に加工できる技術

があれば、応用して仏像を造る事もできるか

もしれませんが、馬具の技術を利用してすぐ

に仏像ができるほど簡単にはいきません。

 

この止利仏師が仏像を完成させるまでには三

代前まで遡らなければならないようです。

止利仏師のおじいさんにあたる人物が『扶桑

略記』に登場します。

継体天皇16年(522年)に大唐の漢の案

部村主司馬達等(くらつくりべのすぐりしば

のたっと)が技術者集団として来朝しました。

案部とは鞍部のことで朝廷につかえて馬具制

作を担当した技術集団でした。

また別の説では、この一族が来朝したのがも

っと古く4世紀に日本に帰化した漢人リスト

三十氏の中に鞍作村主があり、その末裔では

ないかともいわれております。

 

いずれにしても祖父である達等が馬具だけで

なく仏像も多少手がけていたこともあるよう

で、それが仏像制作に対する準備期間だった

ようであります。

また、達等の子である多須奈は『扶桑略記』

用明天皇2年(587年)に「百済仏工鞍

部多須奈」、『聖徳太子伝暦』上巻の同じ

年の項にも「仏工鞍部多須奈」という表現

がなされ、坂田寺の木丈六仏像をつくった

という。

そして次の止利の代で仏師として大成したの

ではないだろうかといわれております。

現在残る止利仏師の仏像は法隆寺の釈迦三尊

像と後に作られたとされる法隆寺の宝蔵館に

納められている小さな釈迦三尊像(一体かけ

ていますが)の仏像が残っています。

仏教の伝来によって馬具制造から仏像の制作

へ華麗なる転身を遂げた姿は、現在輝き続け

ている馬具制造からラグジュアリーブランド

へ転身をしたエルメスやダンヒルにも共通し

ているように感じて見ていました。

 

参考図書 仏師の系譜  佐藤昭夫

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以下はWikipedia参照

鞍作 止利(くらつくり の とり、生没年不詳)は、飛鳥時代の渡来系の仏師。名は鳥とも記される。姓は村主[1]。司馬達等の孫で、鞍部多須奈の子。子に福利・人足・真枝がいたとする系図がある[2]。

造佛記録
法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年)が代表作。安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)も止利作とされているが、後世の補修が甚だしく、当初の部分は頭部の上半分、左耳、左手の指の一部のみとされている。しかし近年、2012年7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが詳しく調査を行った所、現存像の大部分は造立当初のものである可能性が高いとの結論を得ている。
その他、法隆寺等には「止利式」と呼ばれる同系統の仏像が現存する。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、古式の微笑(アルカイックスマイル)などに止利および止利式の仏像の特色がある。

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