三面大黒天 

日本で親しみのある大黒さまといえば、大きなお腹に大きな袋と小槌を持って米俵に立つ姿が一般的ですが、大黒さまの原型とされる発祥の地インドでは日本での大黒天のお姿からは想像がつかないような戦いに強い神様として祀られていたようです。

そのお姿はインドからチベットや唐(中国)に伝わり、残された御経や画像の中からインドで表現された大黒さまのお姿を垣間見ることができます。

唐に伝わると名前が摩詞迦羅と音写され、マカカラあるいはマハーカーラーと呼ばれていたことがわかります。

マハーとは、古代インドのサンスクリット語で大きいという意味で、カーラーとは黒という意味です。

お姿は日本で見かけるような柔和な笑顔ではなく、三つの顔に六本の手、前の左右の2手で剣を横にして持ち、次の2手は左手に牡羊の角を持ち牡羊ごと持ち上げています。
右手では人間の髪を握り人間を引っ張っているような様子です。
後ろの2手で背後に張った象皮を支えています。

このお姿は日本に伝わった初期の大黒天で、そのお姿がお経(大黒天神法:神愷記)の中に記されています。
特徴としては林に住み、飛行に長じて血肉を食う神さまとして表現されていますが、祭れば加護してもらい、さらに戦いに勝つといわれております。
これは私が制作している木彫曼荼羅の胎蔵界曼荼羅の中の一尊像として登場しています。

別のお姿として、ビシュヌ神や地天の化身としてインド寺院の厨房に祭られています。
神王形で床に左膝を立て右脚は垂れる姿がそこには示されています。

また大黒天神法には、黒色で鳥帽子をかぶり、狩衣を着て、右掌は腰に当て、左手で背負った大袋の口を肩腰に握る姿が記されそれが、北九州の観世音寺に、大黒天像の彫刻が伝わっています。

三面大黒天は、後に伝教大師最澄が感得(奥深い道徳や真理などを感じ悟ること)した御像で、日本で独自に制作されたようです。
そのお姿は、正面の顔が大黒天、右が毘沙門天、左が弁財天で、それぞれの尊像に合わせて、大黒天は、小槌と七宝が入っているとされる大袋をもち、右側の毘沙門天は右手奥の二本の腕に毘沙門天の持物である戟と宝棒を持ち、左側の弁財天はその持物である、鉤と宝珠を奥の二本の腕で持つ形となっています。
調べてみるとこの持ち方が基本的な姿として紹介されていますが、右腕奥二本は毘沙門天が持っている持物、左腕奥二本は弁財天が持つ持物でよいようです。

後に秀吉が天下を取る前から、この三面大黒天を護り本尊として大切に持ち歩いていたようです。
それは元々強い大黒天と戦いの神様として知られる毘沙門天と美と才能と学問を司る弁財天が合わさることにより、強さと美しさと聡明さを兼ね備えた最強の護り本尊として、常に携帯し祀ることにより秀吉は天下統一への意識を高めていったのではないでしょうか。
これは私が個人的に感じたことですが、魅力的なかっこ良い男とはどのような人物だろうかと考えたときに、凶暴で強いだけではなく、勉強も人並み以上にこなし、美しいものを感じ、行動すべきときに誰よりも早く行動できる人、そんな人は魅力的だなあと感じることがあります。

同級生に喧嘩っ早く怖いなあと感じていた人がいましたが、その人が美しいピアノを奏で弾いたときには、びっくりして180度、見方が変わったことがあります。

話が少しずれましたが、この三面大黒天は、江戸時代に入り秀吉と関係あるかどうかはわかりませんが、一般の民衆の間にも広がっていったようであります。

多くの人々に三面大黒天が広がることにより、制作する三面大黒天の数も増え、そのことにより若干の持物の違いが生じてくることもあるようで、実際上記にあげていたような持物ではなく別の持物に変わっている場合もあります。
また後世の修復により新しく作られることもあります。

今回、改めて三面大黒天を調べてみると、香合佛として新たに制作したいという気持ちが沸々とわいてきています。

合掌

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