天神さんとして親しまれている京都北野天満宮の骨董
市が毎月25日に開催されています。
ちょうど日曜日と重なり、天満宮の近くに住んでいる
指物師さんと一緒に6年ぶりに天神さんに行ってまいり
ました。
自転車では入れないので家の前に置かせてもらい二人
で天満宮まで歩いて見に行ったのですが、さすがに人
が多く数年前まで骨董にどうしようもないぐらい,骨董
にはまっていた頃が懐かしく、ネット用語でリアルと
いうのでしょうか、外の世界に飛び出して心躍る時を
過ごしてまいりました。
最近はバーチャルの世界でこそこそとしていましたが、
やはりリアルはいいですね。
なんといっても0と1で構成されていない、外での自然
や人とのふれ合いは必要なことではないだろうかと改め
て感じて過ごしてまいりました。
それでも人と人の間をすり抜けて入って行くのは少し億
劫ですが。
しかしここ最近は家にこもりすぎていたのを改めて実感
させられました。
私と骨董との出会いは、知り合いの古伊万里の金継を頼
まれて修繕したのが、始まりですが、それが今から12年
ほど前になります。
修繕をしてから、骨董に目覚めました。
そんな私が最初に古伊万里のそば猪口から手に入れて
自分なりに修復して楽しんで家でもマイカップとして
使ってました。
しばらくすると日本だけでなくアジアや、ヨーロッパ
の器にも魅せられていきました。
これは私の独断と偏見で書いていますが、美しい絵を
じっくりと鑑賞して楽しみたいと思う人、また美しい
絵を手に入れたいと思う人 (人に自慢するために購
入したいのではなく、また応援するためでもなく、自
分の自己満足のためだけに手に入れたい人に限る)の
場合脳みその回転が変わってくると思います。
手に入れたいと思った瞬間、あらゆる角度から考察す
るようになります。
この高揚感を冷静に観察し、この衝動は本物だろうか
、または一時のものだろうか。
と自分の心と心の葛藤が繰り返されていき、度を過ぎ
るとわけがわからなくなります。
本当に古いものだろうか偽物か、仮に偽物であっても
筆遣いがとても見事だと思ってみたり、また考えれば
考えるほどわからなくなります。
そういう時は、少し時間を置いてみます。
すると、思っていた程好きなものではないなと、感じ
たり、またその逆もあります。
骨董の知り合いから聞いた話ですが、良いものは飽き
ることがない。
どんなに歳月が過ぎようが、いつみても素晴らしいも
のは素晴らしい。
その逆のパターンで最初はよかったと思っていたけど、
一週間ですぐに飽きちゃた、という事もあります。
しかし最初に手に入れたものが、一生ものとは限りま
せん。
必ず飽きます、そして目移りします。
それは良いものを手に入れたいという気持ちを持ち続
けていたら自然なことです。
同じ日本人としてこのようなことをいうと語弊がある
かもしれませんが、私は飽きるという事はとても大切
なことだと感じています。
ほとけさまから頂いた大切な飽きるという思い。
趣味に飽き、物に飽き、勉強に飽き、人間関係に飽き
とまあ、人間なんて自分勝手なものです。
飽きることのオンパレード、飽きたらやめたらいいん
です。
なぜやめられないのか、それは人の目が気になる、
いいじゃないですか、人からあいつは飽き性だと思わ
れても、もったいないからという理由だけで使い続け
ると、自分はいったい何が好きなのか何を作れば良い
のか分からなくなります。
以前の私がそうでした。
何を創造し作ってよいのか全く分からない状態でこの
自分のセンスのなさに嫌気がさしていました。
そんなとき自分の直感だけを頼りに、自分が本当に好
きだと思うものを、周りの人間に何と思われようがそ
れを押し通してみました。
ちょうどその頃、骨董と出会いました。
私の友人知人ほとんど骨董に興味がない人ばかりでし
たが、それでも使いそして飽きたら別のを使う、非常
に贅沢な使い方ですが、不思議なことに、今の私は自
分の好みが100パーセントに近いぐらいわかるようにな
りました。
おかげで今は全く物を買うことがなく、昔手に入れた
ものを大切に使い続けて行く理想的な生活を手に入れ
ました。
この飽きるという言葉、別の言葉に言い換えたほうが
良いのかもしれませんね。
たとえば、向上心とか。
合掌
乱雑に配置されたものの中から光り輝くものはないか
以前の私は目を輝かせながら歩いていました。
鑿や鉋などたまに掘り出し物があります。
京都の天然砥石販売している露店
昔はよくお世話になりました。
御主人私のことを覚えてくれていたのでびっくりです。
写真小僧になったのかと思われそうなので遠くから撮影。