はじめまして
このブログの英訳を担当しているセイタロウ(征太郎)と申します。
私は、数年前に、海外経験もほとんどないまま、日本を飛び出し、海外へと引越しをしました。
英語も、まったくわからないまま、何とか生活を続けている間、たくさんの現地で出会った人たちの
好意、そして家族の支えのおかげさまで、英語も徐々になれ何事も無く生活させていただいております。
ある日、日本のモノがすごく恋しくなり、偶然検索エンジンで、このブログと出会いました。
なんとなく、日本のモノは素晴らしいなとこのブログを拝見しているうちに、カッターナイフで仏像彫刻の記事が目に留まりました。
まさに私は、その記事の中でフウタロウさんが書かれていていた、「使う目的もないナイフをカッコ良いという理由だけで手に入れた」タイプで私の家にその使い道のない宝の持ち腐れのナイフがありました。
これはこのナイフを使う、いいきっかけかも知れないと思い。
見よう見まねで、一刀彫の仏さまをお彫りして、普段わたしを支えてくれている妻へとプレゼントしたところ、とても喜んでもらえました。
改めて、手作りのモノのもつ、暖かさや優しさを肌で実感し、私自身とてもうれしくなり、気がつくと、数体の仏様をナイフ一本で彫っていました。
そして、私は今までずっと探してきた、自分が一生のうちに本当にやりたいことが、仏像彫刻かも知れないと思うようになり、その思いは仏さまをお彫りする度に強くなりました。
このような素敵な経験をさせていただき、そして、私自身が何よりも求めていた自分がやりたいことを見つけるヒントをくれたこのブログの管理人様であられます、フウタロウさんへとお礼のメッセージを送らさせていただいたところ、とても快くお返事を賜り、とても幸せな気持ちでいっぱいにさせていただきました。
それからの日々、私の身勝手な仏像彫刻に対する質問に、たくさん快く、そしてわかりやすくご指導まで賜り、たくさんのメールのやり取りを、フウタロウさんのご好意で現在までさせていただいております。
そして、私が出来ることで、何か少しでも恩返しがしたい。
フウタロウさんがこのブログを通じて伝えたいことを、少しでも多くの人たちへ、国籍も宗教も人種も超えてお伝えするためのお手伝いができないかと思い、このブログの英訳をさせていただく運びとなりました。
私自身、学歴もなく、英語を勉強したこともないので、現地で覚えたつたない英語での翻訳ですので、正しい英文とはいえない文章で、誤りも多々あるかも知れませんがそのことも含めてフウタロウさんのご好意により、英訳を任せていただき、とても素晴らしい経験をさせていただいております。
このたび私が訪れた国の彫刻や風景、それぞれの国の手作りの仕事現場などをご紹介させていただく機会を、フウタロウさんの度重なるご好意により賜りました。
私自身初めての経験ですので、つたない文章力ゆえに、駄文になるかもしれませんが、少しでも多くの日本の皆様、そして世界中から、このブログへとアクセスいただいている皆様へと手作りのモノのもつ暖かさや、優しさが伝わるような記事が書ければと思っております。
最後になりましたが、このページをごらんいただいている皆様へ、お伝えしたいことがございます。
私は彫刻が小学生のときからクラスで一番下手でした。
英語の成績もクラスで一番下でした。
このブログと出会う前の私は、まさか自分が仏像彫刻の練習をしているなど夢にも思いませんでした
海外に出る前の私は、まさか自分が英語で生活をして、仕事をするなど夢にも思いませんでした。
人は変わっていくものだと思います。
いや、変わっているのではないのかも知れない。
自分に秘められた可能性を自分で狭めていただけかも知れません。
自分を知っていたつもりだっただけかも知れません。
そして、他人を、世界を知っていたつもりだっただけなのかも知れません。
今この瞬間は誰にでも平等に訪れます。
そしてその瞬間をどう使うかの自由も同時にあります。
もし、少しでも興味のあることや、気になったことがあれば、一度手を止め、足を止め、目を開き
その世界を覗いてみたらどうでしょうか。
もしかしたら、そこには、あなたの知らない素晴らしい経験が待っているかも知れません。
時間の無駄と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は無駄や遊び心こそ人間が、人間らしく幸せに生きるうえでの最高の贅沢のような気がします。
皆様が、新しくそして素晴らしい経験と出会えることを、心よりお祈り申し上げます。
このような機会をご提供いただき、いつも暖かくご指導とお心遣いいただいております、フウタロウ様
身勝手な私を支えてくれる、家族、友人の皆様
そして、私の今まで出会ったすべての人たちとこれから出会う人たちにに心より感謝いたします。
私の駄文長文に最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。
合掌
征太郎
ーセイタロウさんと出会ってー
私、フウタロウの事を最初にお話をする事、御許しください。
私は子供の頃から作文は特に苦手でした。
そんな苦手意識があってか学校で一度も作文や感想文などを書いてほめられた事もありませんでした。
文法が間違っていないだろうか先生からその事を指摘されないだろうか。
おどおどしながら書いていた事を今でも覚えています。
そのトラウマは学校を卒業してからも続き、その後ブログを立ち上げる16年間ずっと引きずっていました。
幸い高校時代にパソコン教育が導入されタイピングゲームで友人と競いあった経験が後に人並み程度にブラインドタッチで打てるきっかけとなりました。
仕事でタイピングする機会もあるのですが、誰かが考えた文章をその通りに(誤字も多いですが)打つのはとてもスムーズなのですが、自分には文章力が無いと最初から決めつけているので原文の文章がこうしたらもっと良くなるのではないだろうか?という疑問はおこりませんでした。
起らないというよりも疑問を感じてはいけないと考えていました。
おそらく思考停止の状態でした。
しかし自分の好きな美術やスポーツは逆に大変楽しんで、取り組んでいました。
美術が好きだった事が仏像彫刻につながりましたが、今では仏像彫刻も20年程経過いたしました。
そして自分の好きな木彫の事をより多くの人に知るだけでなく一度だけでも経験してほしいという気持ちが徐々にわき起ってきました。
そこでブログという方法で発信してみようという気持ちになったのですが、ブログを立ち上げるという事は文章を沢山書き続けなければいけないということで、大変迷いました。
別に無理して立ち上げなくてもよいのですが、それ以上に書きたいという願望をおさえられず、いきなりサーバーと契約をして後戻りできないようにしました。
あれだけ文章を書くのが苦手だった私が、ブログを更新するたびに文法が間違っていたり誤字脱字があったとしても、気にせずどんどんと更新して昔の苦手意識が少なくなりました。
多くの人が何かしらの苦手意識を持っています。
しかし積極的にそれらに挑戦してみると、道が広がったり自分の中の知らない何かに気付く事もあると思います。
私の得意な事が誰かにとっての苦手意識だったりします。
そんな事を考えながらブログの更新を続けていた時にセイタロウさんにブログを通して出会いました。
セイタロウさんとは出会ってから日が経つにつれてメールをやりとりする頻度も増え、時には仏像や木彫以外の話題にも盛り上がったりすることもあります。
日本から離れた場所に住んでいて、簡単に会う事ができませんがメールをする中で彼の一本気なところ、また不器用だと思っていても彼の何でもやってみたいという思いを行動に移す行動力は大変素晴らしい事だと思います。
行動すると苦手なところも顕著に現れてきますが、経験を沢山重ねる事でほとんどの場合解消される事が多いのも事実です。
そして自分の気持ちに素直になって行動すると様々な体験をしたいと思うようになり、その中で色んな種類の経験を積む事になります。
色んな種類の経験を積むということは無駄でなんだか時間がもったいないと思ってしまいます。
私は無駄な事というのは人間にとって生きていくうえでなくてはならない潤滑油のように思っています。
生まれてから就職しそして死ぬまで、一つのプロセスが決まっているかのように外れないように無駄の無いよう周りの目を気にしながら生きて、そして無事に人生を全うして、良い奴だったと皆に囲まれて最後を迎えるのもありだと思います。
生きているのは自分です。
自分が自分の人生を歩んでいるので、失敗も無ければ無駄な事も全くない。
たとえ無駄な事だと思っても、自分が楽しいと思ったりワクワクする事がこれから先あると思います。
そんなときも自分の素直な気持ちを大切に貪欲に色んな経験を積んでセイタロウさんやこのブログに訪問する読者さんらしく今後も変わらず生きてほしいと勝手ながら思っています。
セイタロウさんや造佛記の読者の皆さんには私の方こそ励みや勇気をいただき大変感謝をいたしております。
今後ともよろしく御願いいたします。
合掌
フウタロウ
追記
以前アップしましたセイタロウさんの記事を貼り付けておきますのでよかったら覗いてみてください。
檀波羅蜜菩薩(だんはらみつ) 梵名 Danaparamita ダーナパーラミター
尊形
色 肉色
左手 金剛盤を持ち、花を盛ります。
右手 小指と親指を立てて人差し指、中指、薬指を屈します。
衣 羯磨衣を着します。
台座 赤い蓮華に坐ります。
解説
十波羅蜜の第一で、布施の徳を表しています。
十波羅蜜菩薩はすべて女尊の姿です。
羯磨衣は作業のための衣であって、働きやすい姿をしています。
左手に持っている金剛盤には花が盛られていますが、この花は七宝(金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり 水晶)・硨磲(シャコ シャコガイの略)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう 層状または縞状のある鉱物))七宝から成る花で、それらの花を衆生たちに施すことを示しています。
布施には財施・法施・無畏施の三種あります。
合掌
このブログタイトルの刃物を一年間寝かせるということはどういう事かということですが、実はちゃんと科学的に実証されている訳ではないので各個人それぞれの判断におまかせいたします。
見せる刃物としての刀剣と彫刻刀や大工道具そして包丁などの実用的な刃物では刃物を作る上で目的が違ってきます。
戦国時代のように人を殺傷することを追求した刀だと話は違ってくるのかもしれませんが、たとえ鑑賞するための刀であっても刃が付いていると大変魅力的に見えます。
良いのか悪いのか別にして実際に刀を見てみると古い物であれ新しく作られた刀であっても、刃先の鋭利さに一瞬、死を連想します。
そして自分自身の心が磨ぎ済まされるような、なんともいえない緊張感に包まれます。
小さな、彫刻刀や大工道具でも殺傷能力はそこそこあるのだと思います。
しかし刀剣ほどの緊張感に包まれる事はありません。
刃先の鋭利な切れ味だけをいえばわずかな差だとおもいますが、彫刻刀や大工道具のように木を刻む道具の方が切れ味は良いのだと思います。
しかし彫刻刀や大工道具には死をイメージする事はなかなか難しいと思います。
私たちの中には木を削るというイメージが既に定着しているのだと思いますが、道具が醸し出す雰囲気もあるのだと思います。
実生活において死を意識する事はあまりないと思いますが、祖父母との死別など身近な人との別れの時に意識をすることがあります。
そして刀にも死を意識させられます。
もちろん刃先の鋭利さや波紋の美しさに目を奪われるのですが、それと同時に死を連想します。
自分は死について何を恐れているのか、孤独に対する寂しさなのか等々様々な事を考えさせられます。
それは自分が今この瞬間死んでも後悔しない人生だったのか、まだやり残した事があるのか明確に目を見開かせるという道具としてはとても優れているのかもしれません。
世の中には人を切りたくなる名刀があるといわれるぐらい人の心を麻痺させる力を持つ刀があります。
鎌倉時代にそのような名刀が多いというのは、当時の鍛冶職人が、殺傷能力の高い刀を注文主の武士の依頼に応えるべく何度も何度も改良に改良を重ねて刀の形を完成させたのではないだろうかと思われます。
幸いにも現在では鑑賞するための道具として刀が作られています。
今からお話するのは、二張の和傘(以前ブログでご紹介しました。リンクを張っておきます)のご主人が若い頃に鍛冶職人さんから聞いた話なので終戦間近か戦後の話だと思います。
ある大変変わり者の刀鍛冶職人さんがいました。
その鍛冶職人さんは生活のため、大工道具や包丁などをつくる鍛冶屋さんに転向しました。
周りから元々変わり者だといわれていたために、相談する相手もなく突然転向されたそうですが
刀剣を作っていたという経験から、大工道具や料理人が使う包丁などは刀を作る技術を生かして作りあげました。
そして販売する事になりました。
販売すると思っていた以上に大変良く売れたそうです。
しかし、しばらく日数が経過すると刃物の返品が頻繁におこるようになりました。
当の本人にはどうしてこのような自体になったのかわからなかったのですが、刃先の切れ味が悪いということが原因のようです。
当時の日本人は刃物を砥ぐことは日常生活の一部なので、購入した本人の砥ぎの腕が悪いということでもないようで実際に道具それ自体に切れ味を持続させる力がなかったのだと思います。
元々変わり者で通っていたので頭を下げて、他の鍛冶職人さんに理由を訪ねる事が出来なかったのですが、返品が続く中、やむを得ず二張の和傘のご主人さんの知り合いの鍛冶職人さんにその理由を聞きに頭を下げて訪ねる事になりました。
そして返ってきた答えが、「作りたての刃物を販売するからこのような事になるんだよ」とそしてこの記事のタイトルの通り、「刃物は一年以上寝さなければならない」
と答えが返ってきました。
ではなぜ一年以上寝かせなければいけないのかという理由については、よくわからないのですが、経験的に作り立ての刃物が切れない事は昔から伝統的に伝わっていたようです。
このお話はここまでにしておきますが、今現在においては、どこの刃物屋さんでもちゃんと切れる刃物を置いているところばかりなので特に上記の事を意識する事はないと思います。
逆に作り立ての刃物を手に入れる事の方が非常に難しいと思いますので、参考程度に読んでいただければと思います。