愛染明王(あいぜんみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つ。梵名のラーガ・ラージャ(rāgarāja)あるいは、マハー・ラーガ(mahārāga)は、サンスクリット経典にその名は見られないが、チベットの経典や儀軌には散見され、中でもチベット密教の四大宗派に共通する後期密教のテキストである、「プルパ金剛」 [1] の儀軌や次第、グル・デワ・ダキニの『三根本法解説』[2] [3] 等には、「プルパ金剛十大忿怒尊」の一尊としてこの愛染明王が登場する[4] [5]。 [6] [7]
また、漢訳では真言宗で五部秘経に数える『瑜祇経』(大正蔵№867:金剛智三蔵訳)を典拠とするだけではなく、宋代の訳である『仏説瑜伽大教王経』(大正蔵№890:法賢三蔵 訳[8])や、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵№1169)をはじめ、チベット密教では、ニンマ派が伝承する旧訳『大幻化網タントラ』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)経典群等の各種の曼荼羅や、サキャ派やカギュ派が伝承する新訳『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)の曼荼羅にも、尊那仏母(准胝観音)や大日如来の守護尊(yidam:イダム)として、穢跡金剛(大力金剛)[9]や、不動明王らと共に、梵名のタキ・ラージャ(takki raja)の別名でも登場する。
『覚禅鈔』には、愛染明王の異名として「吒枳王」(タキ・ラージャ)を挙げ、『妙吉祥平等秘密最上観門大教王経』(大正蔵№1192)には、このタキ・ラージャが「大愛明王」と訳されており、その真言が「ウン・タキ・ウン・ジャク」とあるので、那須政隆はタキ・ラージャを愛染明王であるとしている。[10] [11] [12] [13]このように数々の経典にも登場するので、愛染明王はインド密教においてもポピュラーな忿怒尊であったことが伺われる。 [14]
なお、この「プルパ金剛」の真言と印は、日本最古の次第書である『寛平法皇の次第書』(別名;小僧次第)にも尊名は無いが梵字で真言が登場し印相も述べられており[15]、古次第に共通の重要な作法ともなっているので、愛染明王は日本密教とチベット密教を結びつける尊挌の一つに挙げることができる。
愛染明王の密号は『離愛金剛』[16]で、『白宝口抄』[17]には「離愛金剛は即ち愛染明王なり」としていて、ここで「離」は生死の業となる因子の煩悩や渇愛を離れる意味で、「愛」は菩提(覚り)の妙果を愛する意味であるので[18]、『離愛金剛』は「愛欲(煩悩)を離れ、大欲に変化せしむ」の意味となる[19]。
目次 [非表示]
1 概説
2 尊容と信仰
3 愛染明王の功徳
3.1 本誓と功徳
3.2 愛染明王十二大願
4 真言・印・三昧耶形
4.1 真言
4.2 種子
4.3 手印
4.4 三昧形
5 愛染明王の起源
6 現行のテキスト
7 愛染明王法の特徴
8 愛染明王の曼荼羅
8.1 心曼荼羅
8.2 本尊曼荼羅
8.3 立体曼荼羅
9 寺院
10 美術館等
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
概説
日本密教の愛染明王は、『金剛頂経』類に属するとされる漢訳密教経典の『瑜祇経』に由来し、この経典は正式名称を『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』[20]といい、同経典の「愛染王品第五」に愛染明王が説かれている。その修法は、息災・増益・敬愛・降伏の『四種法』の利益をもって記述され、その功徳は、「能滅無量罪 能生無量福」(よく無量の罪を滅して、よく無量の福を生じる)とも説かれている。
また、同経典の中で「三世三界中 一切無能越 此名金剛王 頂中最勝名 金剛薩埵定 一切諸佛母」(三世の三界の中にあって、他の一切が誰もこの尊を越えることができ無いので、この尊の名前は金剛の王とされ、『金剛頂経』の中で最勝の名前であり、教主である金剛薩埵がこの尊を定めて、一切の諸仏の母とした)とも讃えられていて、これに基づいて金剛界で最高の明王と解釈される場合がある。
これに対して不動明王は胎蔵界で最高の明王と解釈される場合があり、たとえば東京都の金龍山浅草寺や、千葉県の成田山新勝寺等では両界の最高の明王として不動明王(胎蔵界)・愛染明王(金剛界)の両尊が祀られている。この日本密教における大日如来や如意輪観音、如意宝珠等を中心として、左右に不動明王と愛染明王の二体を祀る形式は非常に古く、他にも京都や高野山の古刹の寺院などに現在も少なからず見かけることができる。
歴史的な資料としては、空海と同時代の人物であるインドの密教行者グル・パドマサンバヴァが、国王ティソン・ディツェンの勅命によりチベットに初めて建立した国立の大寺院であるサムイェー寺は、四面二臂の『大日経』系の姿をとる大日如来を中心とする、三層から成る立体曼荼羅を実現させた密教寺院であるが、9世紀当時のバセルチン(dBa gSal snang)が著したチベットの歴史書である『バシェー』(dBa bzhed)によると、寺の入り口の左右には守護者である門神として、不動明王(アチャラ・ナータ)と並んで愛染明王(タキ・ラージャ)[21][22]が祀られていたという。サムイェー寺は歴史の変遷の中で立替がなされ、現在はチベット動乱後にディンゴ・ケンツェ・リンポチェの資金援助で再建されたものが建っているが、チベット仏教で人気のある馬頭観音と金剛手菩薩(バジラ・パーニ)に換えられてしまっている。
日本では、この不動明王と愛染明王の両尊を祀る形式が1338年頃に成立した文観の『三尊合行秘次第』[23]に始まるとされている[24]。この説に基づくならば、現在、福山市にある円光寺・明王院[25]は、大同2年(807年)に空海が開基したと伝えているが、この寺の境内にある五重塔(国宝)は貞和4年(1348年)に建立され、初層に大日如来を本尊として左右に不動明王と愛染明王を祀っているので、日本におけるその初期の例として挙げることが出来る。ただ、文観自身はこの書 を書写したとしており、密教の事相上では『三尊合行秘次第』の本尊となる如意宝珠は特殊な形をしていて「密観宝珠」[26]とも呼ばれ、如意宝珠形の下に五鈷杵を配した舎利塔に仏舎利を入れたものであるところから、これを如意輪観音の三昧耶形であるとして、空海の直弟子に当る観心寺の檜尾僧都実恵や、醍醐寺の開祖理源大師聖宝の口伝にまで遡ろうとする考え方もある[27]。
ちなみに、高野山には空海の請来になる品物を保管している「瑜祇塔」という建造物がある。この名は、愛染明王と同じく『瑜祇経』を典拠としているが、その正式名称は「金剛峯楼閣瑜祇塔」で、高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の呼び名は、この「瑜祇塔」に由来する。[28]
尊容と信仰
衆生が仏法を信じない原因の一つに「煩悩・愛欲により浮世のかりそめの楽に心惹かれている」ことがあるが、愛染明王は「煩悩と愛欲は人間の本能でありこれを断ずることは出来ない、むしろこの本能そのものを向上心に変換して仏道を歩ませる」とする功徳を持っている。
愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭にはどのような苦難にも挫折しない強さの象徴である獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。
もともと密教における蓮華部の敬愛を表現した仏であるためその身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。
また、『瑜祇経』第五品に記される偈頌(げしゅ)である「衆星の光を射るが如し」の部分を再現した天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿の高野山金剛峯寺に伝えられる「天弓愛染明王像」や、京都府木津川町山城町の神童寺像、山梨県甲州市塩山の放光寺像などがあり、更には、日蓮筆と伝える「愛染不動感見記」の馬に乘る八臂像や、両頭など異形の容姿で描かれた図像も現存する。
愛染明王信仰はその名が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。
日蓮系各派の本尊(曼荼羅)にも不動明王と相対して愛染明王が書かれているが、空海によって伝えられた密教の尊格であることから日蓮以来代々梵字で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。
軍神としての愛染明王への信仰から直江兼続は兜に愛の文字をあしらったとも考えられている[29]。
愛染明王の功徳[編集]
本誓と功徳[編集]
愛染明王の姿は『瑜祇経』に説かれる一面六臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、それを愛染明王の「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに明らかにしておき、愛染明王の仏教的な働きの意味の理解を深める一助とする。いわゆる愛染明王の姿の特徴は、一面三目・六臂で、頭上には獅子の冠を頂き、冠の上には五鈷鉤が突き出ていて、その身は赤色で宝瓶の上にある紅蓮の蓮華座に、日輪を背にして座っている。これらの相が示すその象徴的な意味は以下のようになる。[30]
燃え盛る日輪を「織盛日輪」と言い、日輪は仏のもつ無上の浄菩提心を表し、燃え盛る炎は智火が煩悩に基づく執着や愛欲を悉く焼き尽くし、その「愛染三昧」の禅定が不退転となる仏の勇猛心であることを表している。
頭上に獅子の冠を頂き、髪の毛を逆立てて怒髪天を突くさまを表すのは、百獣の王である獅子が吼えるとあらゆる猛獣もすぐに静かになる譬えのように、憤怒の怒りの相と獅子吼によって諸々の怨敵を降伏して、一切衆生を救済することを表している。
冠の上に五鈷鉤が突き出ているのは、衆生の本有(ほんぬ)の五智を呼び覚まして、邪欲を捨てさせて正しい方向へと導くことを意味し、愛染明王の大愛[31]が衆生の心に染み入り、仏法の真実を体得せしめることを表している。[32]
一面三目で身体が赤色であり、その身を五色の華鬘で荘厳する点は、三つの眼は法身と般若と解脱を意味し、世俗面においては仁愛と知恵と勇気の三つの徳を表す。身体が赤く輝いているのは、愛染明王の大愛と大慈悲とがその身体からあふれ出ていることを意味し、五色の華鬘でその身を荘厳するのは、五智如来の持つ大悲の徳を愛染明王もまたその身に兼ね備えていることを意味し、両耳の横から伸びる天帯[33]は、「王三昧」に安住して如来の大法である真理の教えを聞くことを表している。
六臂として手が六本あるのは、六道輪廻の衆生を救う意味をもつ。また、左右の第一手は二つで「息災」を表していて、左手の五鈷鈴は、般若の智恵の音と響きにより衆生を驚愕させて、夢の如きこの世の迷いから覚醒させることを表し、右手の五鈷杵は、衆生に本有の五智を理解し体得させて、愛染明王の覚りへと到達せしめることを表している。
左右の第二手は二つで「敬愛」と「融和」とを表していて、左手の弓と右手の矢(箭)は、二つで一つの働きをするので、この世の人々が互いに協力して敬愛と和合の精神を重んじ、仏の教えを実践する菩薩としての円満な境地に至ることを意味している。また、愛染明王の弓矢は、大悲の矢によって衆生の心にある差別や憎しみの種を射落とし、菩提心に安住せしめることを意味し、いわゆる矢は放たれるとすぐに目標に到達することから、愛染明王への降魔や除災、縁結び等の祈念の効果が早く現れることをも表している。
左右の第三手は二つで人生の迷いや煩悩による苦しみの世界を打ち払う「増益」と「降伏」とを表していて、左手に拳を握るのは、その手の中に摩尼宝珠を隠し持っていて、これは衆生が求めるあらゆる宝と財産や、生命を育むことを意味していて、右手の赤い未敷蓮華(みふれんげ)は、それらの衆生の財産や生命を奪おうとする「四魔」[34]に対して、大悲の鞭を打ち振るい、魔を調伏することを表している。
愛染明王が座っている紅蓮の蓮華座は、「愛染三昧」の瞑想から生じる大愛の境地を実現させた密教的な極楽浄土を意味していて、その下にある宝瓶は、仏法の無限の宝である三宝を醸し、経と律と論の三蔵を蔵することを表している。また、その周囲に宝珠や花弁が乱舞するのは、愛染明王が三宝の無尽蔵の福徳を有することを意味している。
愛染明王十二大願
更に、愛染明王は仏としての誓願に基づき、一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされ、その内容は以下のようになる。[35]
智慧の弓と方便の矢を以って、衆生に愛と尊敬の心を与えて、幸運を授ける。
悪しき心を加持して善因へと転換し、衆生に善果を得せしめる。
貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩を打ち砕いて、心を浄化し、浄信(菩提心)を起こさしめる。
衆生の諸々の邪まな心や、驕慢の心を離れさせて、「正見」へと向かわせる。
他人との争いごとの悪縁を断じて、安穏に暮らせるようにする。
諸々の病苦や、天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせる。
貧困や飢餓の苦悩を取り除いて、無量の福徳を与える。
悪魔や鬼神・邪神による苦しみや、厄(やく)を払って、安楽に暮らせるようにする。
子孫の繁栄と、家運の上昇、信心する人の一家を守って、幸福の縁をもたらす。
前世の悪業(カルマ)の報いを浄化するだけでなく、信心する人を死後に極楽へ往生させる。
女性に善き愛を与えて良い縁を結び、結婚後は善根となる子供を授ける。
女性の出産の苦しみを和らげ、その子のために信心すれば、子供には福徳と愛嬌を授ける。
真言・印・三昧耶形[編集]
真言
『瑜祇経』 一切如来金剛最勝王義利堅固染愛王心品第二
Om maha raga vajro snisa vajra satva jah hum bam hoh
オン マカ ラギャ バゾロ シュウニシャ バザラ サトバ ジャク ウン バン コク
『瑜祇経』 愛染王品第五
Hum takki hum jah
ウン タキ ウン ジャク
その他
Hum siddhi
ウン シッチ
(なお、真言を唱える際には個別の灌頂[36][37]を必要とし[38][39]、正しく潅頂をえていない場合には唱えることは相応しくなく、[40]その功徳を失う[41][42]。また未灌頂者に真言法を教えた者は 密教の三昧耶戒に違反となる。[43][44]。[未潅頂者 請勿誦呪][45][46])
種子
『瑜祇経』 一切如来大勝金剛心瑜伽成就品第七、「ウン」字。
『瑜祇経』 愛染王品第五、「コク」字。
手印
明王はその称号に「明呪の王」とあるように、真言(マントラ)から派生した手印が少なからずあり、愛染明王も流派や師伝、その系統によって手印にはいくつかのバリエーションが見られる。
愛染明王根本印
五股印(五鈷印:五種類)
五種印(敬愛)
橛印 1 (金剛橛印)
橛印 2
橛印 3
大三昧印
金剛印
三昧形
種子が「ウン」字の場合には、「五鈷杵」あるいは、「五鈷鉤」。
種子が「コク」字の場合には、「箭」(矢)。
その他として、息災は「輪」、増益は「珠」、調伏は「一鈷」(独鈷)、敬愛は「蓮」、鉤召は「鉤」、延命は「甲冑」。[47]
愛染明王の起源
『降三世儀軌』(trailokyavijayakalpa)には、金剛手菩薩(バジラ・パーニ)が世尊(大日如来)の教えを授かった上で、「タキ・フン・ジャク」(takki hun jah)の心真言を述べていて、これを四臂の金剛手菩薩となる「具徳金剛手」であるとしている。平岡龍人は『密教経軌の説く 金剛薩埵の研究』の中で、これを「タキ = 欲(欲の自性)」と、「フン = 憤怒」と、「ジャク = (欲と憤怒の)両者を鈎招し」と訳し、「タキ・フン・ジャク」の真言を「一切世間の全ての有情を欲と憤怒で清める」と訳した上で、この「具徳金剛手」を金剛薩埵の「愛染三昧」の化身で、愛染明王と同様の姿であるとしているが [48] 、このことから、愛染明王の起源を金剛薩埵に求めることも考えられ得る。また、同様の理由から栂尾祥雲は『理趣の研究』の中で、『理趣経』の主題である五秘密について触れ、「欲・触・愛・慢」における金剛薩埵の「五秘密の三昧」は愛染明王の姿であるとし、『理趣経』の本尊は愛染明王に他ならないとしている[49]。
現行のテキスト[編集]
日本密教では、愛染明王とその諸尊を説く大法の『愛染明王私記』や、諸明王の別法や大法を集めた『明王法集』、愛染明王法と同じく『瑜祇経』を典拠とする五重秘伝の智火を燃やす『内護摩次第』等が知られていたが、作法や実修の内容が難しくて時間もかかるため今では行なわれてない。かわって、短い「一尊法」形式のものや、一段から三段の外護摩の『護摩次第』が中心となっている。中国密教では、愛染明王は「唐密」において有名であるが、その法や潅頂を伝えている人は少なく、そのため次第やテキストは非常に稀である。チベット密教では愛染明王の単尊の潅頂や、「プルパ金剛法」やタントラの原典に付随する大法における部分的な灌頂を伝えているが、愛染明王の単独での修法や法要等の現行のテキストは知られていない。
また、「唐密」やチベット密教では愛染明王法には特別な法具を用いており、その一つとして金剛橛(プルパ杵)を挙げることができる。『秘抄』[50]の作法中によると、空海が弘仁4年(813年)に興福寺の南円堂を建立の際に『八大明王鎮壇法』を修して[51][52]、その典拠となる『大妙金剛経』(大正蔵:№965)[53]を入唐八家の安祥寺僧都恵運が伝え、後に小野派随心院僧都成尊がこれを再び修したとされている。この古密教に属すると見られる『八大明王鎮壇法』では、いずれも金属製の法具として、八葉の蓮華座[54]の上に八幅輪の「輪宝」を載せ、その上に「橛」(金剛橛)を載せたものを八個並べて修法を行なうとあるので、日本でも明王の修法には金剛橛が用いられたことが分かる。日本の「八大明王法」は、主に愛染明王と同じく獅子の宝冠を被る仏眼仏母を本尊としており、醍醐寺にはこの八大明王[55] を配する『仏眼曼荼羅』[56]を秘蔵しているが、現在、金剛橛を用いる修法は伝えられておらず、この「八大明王法」が修されることはない。なお、「八大明王法」と類似の法としては、同時代に伝えられたチベット密教における『八大ヘールカ法』[57][58]を挙げることができる。
日本密教
『中院三十三尊』
『三憲聖教』
『薄双紙』
『諸尊通用次第』
中国密教
『愛染明王成就儀軌』
『愛染明王曼荼羅法』
チベット密教
『三根本 プルパ金剛成就法』
『天鉄プルパ金剛曼荼羅法要次第』
愛染明王法の特徴
愛染明王の曼荼羅
心曼荼羅
『心曼荼羅』とは、その尊格の心真言による「字輪観」より生じた、説会の曼荼羅のことを言う。中国密教の「唐密」やチベット密教等では、各々の尊格が個別の異なる「字輪観」を説くが、日本密教では口伝の残る「阿弥陀如来法」や「如意輪観音法」と、「不動明王法」の一部に各尊の「字輪観」を伝えるのみで、他は「大日如来法」の五仏の真言をもって代用し、全て同じ「字輪観」としている[59]。それ故、ここでは中国密教の「唐密」が伝える『愛染明王成就儀軌』[60]に説かれる『心曼荼羅』を紹介する。なお、日本密教では『理趣経』に説かれる「初会の曼荼羅」が、説会の曼荼羅に相当する。
「愛染明王法」は心真言(短呪)の「ウン・タ・キ・ウン・ジャク」の五文字を月輪上に順に配置して字輪とし、次に説会の曼荼羅を生じる。まず、「ウン」字を中心に置き、南方(正面・上方)に「タ」字を配して、そこから時計回りに西方に「キ」字を配し、北方(手前・下方)に「ウン」字を配し、東方に「ジャク」字を配して字輪とし、この字輪からそのまま「愛染明王法」を説く説会の曼荼羅を生じる。中央に「金剛薩埵」を配し、南方に「咕羅咕里佛母」(クルクリフゥムゥ)[61]を配し、西方に「伊迦惹托」(イケイジャット)[62]を配し、北方に受者としての「愛染明王」を配し、東方に「不空絹索観音」を配した曼荼羅を生じて、これを『心曼荼羅』とする。
『心曼荼羅』では、中央の真言の「ウン」字が「金剛薩埵」へと変じ、「金剛薩埵」はこの法の説法者となる。次の「タ・キ」の真言は「愛欲」を意味していて、「咕羅咕里佛母」は愛から生じた執着である「愛縛」[63]を司り、それを敬愛へと変化させる。「伊迦惹托」は愛から生じた執着である「嫉妬」を司り、その根本となる「無明」と「悪見」を打ち砕く。受者である「愛染明王」は智火を表す怒りの炎によって「愛欲」を昇華する。「不空絹索観音」は結果として「愛欲」を仏の「慈悲」へと転じ、一切衆生を残らず救うことを表している。また、『心曼荼羅』で向かい合う「愛染明王」と「咕羅咕里佛母」、「不空絹索観音」と「伊迦惹托」は、男尊と女尊で一対の関係にある。中央の「金剛薩埵」は中国密教の「唐密」では単尊であるが、チベット密教ではこういう場合「ヤブユム」で描かれることになる。
この『心曼荼羅』は、日常の修法において「密教の三原則」である法身説法を体感するための重要な観法であり、日本密教では既に失伝したが、チベット密教や中国密教の唐密では今も残されている教えの一つである。
本尊曼荼羅[編集]
『本尊曼荼羅』とは、愛染明王を曼荼羅の本尊として中心に配置し、その周りを多数の尊格が取り囲む形式で描かれるもので、日本密教では通常『別尊曼荼羅』と呼ばれる曼荼羅を指している。愛染明王の曼荼羅は多岐にわたり、その種類や登場する尊格も様々であるので、ここでは日本密教のものに限定し、具体的な例を挙げて解説を加える。いわゆる日本の愛染明王の『本尊曼荼羅』は、次の3種類に分けることが出来る。愛染明王を本尊とし、その周囲に眷属聖衆や護法尊等を配置する形式の中国密教やチベット密教とも共通する『本尊曼荼羅』、愛染明王を「金剛王菩薩」であるとする一般的な『愛染曼荼羅』、異形の「両頭愛染明王」(りょうずあいぜんみょうおう)を本尊とする『両頭愛染曼荼羅』である。この他には、神仏混交を背景とした『本地曼荼羅』も知られているが、ここでは割愛する。
本尊曼荼羅
愛染明王の『本尊曼荼羅』として最も完成されたものは、本尊の愛染明王を中央に描き、四方に「四童子」を描き、周囲に「八大明王」を配し、外周に「十二天」と「二十八宿」を描くものであるが、この形式を踏襲する秀作が日本にも残されており、それが太山寺の絹本著色「愛染曼荼羅図」(重文)である。兵庫県神戸市にある三身山太山寺は天台宗の名刹で、霊亀2年(716年)に藤原鎌足の長男である入唐僧定恵が開山となって、孫の藤原宇合が建立したと伝える。この太山寺の絹本著色「愛染曼荼羅図」[64]は中央に愛染明王を描いて、その左右に「四童子」[65]を描き、時計回りに、四隅に当る右上には「無能勝明王」、右下に「馬頭観音」、左下に「降三世明王」、左上に「大威徳明王」を配し、その外周を「十二天」が取り囲んでいる。同様の図柄が『覚禅鈔』[66]の「八十一」にも『愛染曼荼羅』として納められていて、そのモチーフを伝えている。
また、『本尊曼荼羅』の系列上にあるものとしては、江戸時代の作となる大阪の神宮寺感応院にある絹本著色「愛染曼荼羅図」は日本的な図柄となっている。この絹本著色「愛染曼荼羅図」[67]は中央に愛染明王を描いて、時計回りに、四隅に当る右上には「三宝荒神」、右下に「大黒天」、左下に「毘沙門天」、左上に「大威徳明王」を描いている。愛染明王の周囲に護法善神を配しながらも「三宝荒神」を描く点は、江戸時代における当時の信仰を反映していると見られる。
『秘抄』の諸尊護摩における「葉衣観音」[68]の護摩法の中では愛染明王の『本尊曼荼羅』を説く。その一つは愛染明王を中心とする「二十八夜叉神」(または二十八宿[69])を描くものであり、その曼荼羅は孔雀明王の曼荼羅に似て、『胎蔵界曼荼羅』のように八葉を中心に描くと述べられている。
愛染曼荼羅
愛染明王は平安時代に既に祀られてはいたが、民間には不動明王に遅れて信仰され始め、本格的に崇拝の対象とされるのは鎌倉時代になってからである。その際に、日本ではまだ『大蔵経』も編纂されておらず、今日のような中国密教やチベット密教との交流もなかったために、愛染明王の典拠とされるのは『瑜祇経』だけであった。それゆえ、本格的な修法を整えるために『瑜祇経』の本文である先の「此名金剛王」の文章に「菩薩」の二字を補って「此の名を金剛王菩薩という」のように固有名詞として読むことによって、愛染明王の典拠を「金剛王菩薩」や『理趣経』に説く「金剛薩埵」と同尊とし、広くインド密教に繋がる存在とした。特に『理趣経』を典拠とする必要性があったのは、『理趣経』が僧侶の読む専門的なお経であることと、大師筆(空海筆)本とする『理趣経曼荼羅図像』[70][71]の最後に、十七段の諸尊と、諸曼荼羅をまとめる存在として愛染明王が描かれているからである。今日、日本密教で一般に『愛染曼荼羅』と言われるものはこの系統であり、『理趣経』に基づきながらも『大楽金剛薩埵修行成就儀軌』を参考にして『愛染曼荼羅』とするものと、『金剛王菩薩秘密念誦儀軌』に基づき『愛染曼荼羅』とするものとの二系統があるが、いずれも十七尊からなり専門的な知識が無ければ見分けはつかない。[72]また、この『愛染曼荼羅』に関する限り、「金剛王菩薩」は先に『胎蔵界曼荼羅』に登場し、本尊の「大日如来」と同じ大きさで描かれているが、愛染明王の姿との共通点も乏しく、「金剛薩埵」は諸経に説かれる別個の尊挌であるから、根立研介の研究や、柴田賢龍の指摘にもあるように曼荼羅における本尊の差し替えと見てもよい。
『理趣経』に基づき、『大楽金剛薩埵修行成就儀軌』と『金剛界曼荼羅』の「理趣会」を底本とする『愛染曼荼羅』の秀作として挙げられるものは、根津美術館蔵の絹本著色「愛染曼荼羅図」(鎌倉時代前期)[73]である。この根津美術館蔵の絹本著色「愛染曼荼羅図」は、中央に愛染明王を置き、『金剛界曼荼羅』に従って東を下として、東方(下方)に「欲金剛菩薩」を配し、時計回りに南東に「焼香金剛女」、南方に「触金剛菩薩」、南西に「華金剛女」、西方(上方)に「愛金剛菩薩」、北西に「燈金剛女」、北方に「慢金剛菩薩」、北東に「塗香金剛女」を配する。これは、「欲・触・愛・慢」の四金剛と、「焼香・華・燈明・塗香」の外四供養からなる構成である。更に、その外側の四正方向には、東方に「鉤菩薩」、南方に「索菩薩」、西方に「鏁菩薩」、北方に「鈴菩薩」の四摂菩薩を配し、四隅方向の南東には「嬉菩薩」、南西には「鬘菩薩」、北西には「歌菩薩」、北東には「舞菩薩」の四供養菩薩を配して『愛染曼荼羅』とする。この曼荼羅と同系統のものには、醍醐寺の絹本著色「愛染曼荼羅図」(南北朝時代)[74]がある。図像の構成が四重院から成り広がりがあるが、諸尊とその配置は変わらない。
『金剛王菩薩秘密念誦儀軌』に基づく『愛染曼荼羅』の秀作として挙げられるのは、随心院の絹本著色「愛染曼荼羅図」(平安時代末期-鎌倉時代初期)[75]である。この随心院の絹本著色「愛染曼荼羅図」は、中央に愛染明王を置き、金剛王菩薩が胎蔵界に属するため『胎蔵界曼荼羅』に従って東を上として、東(上方)に「愛楽金剛」を配し、時計回りに南東に「愛楽金剛女」、南方に「意気金剛」、南西に「意気金剛女」、西方(下方)に「意生金剛」、北西に「意生金剛女」、北方に「計里枳羅金剛」、北東に「計里枳黎金剛女」を配する。更に、その外側の四正方向には、東方に「色菩薩」、南方に「声菩薩」、西方に「香菩薩」、北方に「味菩薩」の四菩薩を配して、真言の「弱・吽・鑁・斛」(ジャク・ウン・バン・コク)の四文字を具象化させて、四隅方向の南東には「焼香金剛女」、南西には「華金剛女」、北西には「燈金剛女」、北東には「塗香金剛女」の外四供養をその明妃として配して『愛染曼荼羅』とする。
両頭愛染曼荼羅
立体曼荼羅
参照Wikipedia
下の画像は現在の木彫曼荼羅の進行状態です。
両界曼荼羅
左 金剛界八十一尊曼荼羅
右 大悲胎蔵生大曼荼羅
動画
金剛界八十一尊曼荼羅と大悲胎蔵生曼荼羅の制作
私が曼荼羅の事を意識したのは、私の先生が曼荼羅を納める
所を間近でみてきたことが一番大きい。
近い距離で曼荼羅を見ると想像以上に、見応えがあります。
宗教心はおそらく関係ない、そして知識も関係ない、ただその
場で見せてもらうだけで、あまりの高貴さと迫力に圧倒されて
しまいます。
まず最初に仏様の数にびっくりしました。
尊像数
金剛界八十一曼荼羅 81体 胎蔵界曼荼羅
412体 合計493体
わたしがこれから開始する浮き彫りの曼荼羅はあまりする人が
いませんが
非常に長い長い 道のりの彫刻になることは間違いがありません。
作業年数でいえば5年ぐらいみておかなければいけない、人に言
ってしま えばやめるにやめれない、きっと出来上がったら魅力的
な彫刻だろうと は思う、やはり人と同じものを作っていてもあま
り、刀が乗らない。
私は精神論はできるだけ控えて作業に取りかかりたいと考えてい
ます。
そういうことで少し物足りないこともあるかもしれません。
これから始まる長い長い道のり、今から取り組む作業は仕事では
ないの でもしかしたら私がその前にギブアップするかもしれませ
んが。(>_<)
一日に一体、彫ることが難しいので最短でも2年以上はかかると考
えてい ますので、4〜5年ぐらいかなと考えております。
これだけ意気揚々と曼荼羅を浮き彫りで彫ると書いては見たものの
、実 は曼荼羅の事を詳しく知っているわけでもなく、制作しながら
一尊一尊 を確認しての取り組みになります。
では、早速取り掛かります。
合掌
1. 木彫曼荼羅の開始
2. 曼荼羅の方位
4. 曼荼羅の仮づけ
5. 曼荼羅と善無畏