今回は横と後ろの面を攻めていきたいと思います。
後ろからみると光背はまだ正円ではありませんが、もう少し中心と高さが決まるまで彫り進めてから決めますのでまだこの段階では漠然と残しています。
右側はよく見えないので想像です。
ただ肘と手の流れは大体決まっているので、流れを意識して甲冑や着衣を、左の面を参考にして彫りだしています。
左右の天衣は見えないですが帯の腰の結び目から下に向かって翻っています。
今回初めて知ったのですが、宝塔の持ち方が私が知っている持ち方が手先が前にきているのですが、法隆寺金堂の毘沙門天像は手先が後ろになってます。
手の甲が前にくるような状態です。
手が自然な形でみえるように、若干宝塔を前に傾けています。
今回の法隆寺金堂の毘沙門天様を彫らせていただいて感じたのは、非常に妖術的な魅力を感じる像だなあと思いました。
彫刻が慣れてくると、人体の構造の流れをきちんとしなければいけないと思い、いわゆる肉体としてのバランスがとれた像を作るようになってきます。
すると見た目にもすっきりとバランスがとれるのですが、昔の仏像で人体としておかしな構造をもった仏像は鎌倉時代以前には特に沢山あります。
しかし、そういった御像が彫刻の造形として悪いのかというと、そうではなくて不思議な魅力を感じさせたり、エネルギーを感じたりと何ともいえない魅力が備わっている仏像が多いように思います。
それはただ単に仏像の人体の構造としてのバランスを単純に崩せばよいというだけの話ではなくて、
流れ作業で大量に造られた仏像のバランスが悪く見た目もあまり拝みたいように思えないのはただ単に一体の仏像に集中して制作している時間があまりにも短く適当だからだと思います。
人体構造がおかしくても、力強く感じるのは、もっと別な視点で制作されたからではないでしょうか。
もちろん大陸からの影響が色濃く残っているのもありますが、仏教という新しい教えに人々を帰依させるという強い信念のもと、一瞬で人の心をつかまえるための仏教の魅力を仏像を通して時の権力者が特に意識していたのではないだろうかと勝手な想像ですがそのようにも感じました。