二張の和傘 11 -仕事の依頼ー

 

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二張の和傘 11 -仕事の依頼ー

食事も済んで,ご主人おもむろに硯の蓋と水滴と水滴

台、そして高さ2センチぐらいの小さい中国清朝の頃

の石でできた緑の仏頭を 取り出しました。

それが初めての仕事の依頼だとすぐにわかりました。

 

私が食事をしていた机は、けやきと黒檀で出来た、

火鉢の上に1.5センチぐらいの厚みの板を上から載せた

小さな机を使っていました。

上から見ると長方形の形をしています。

沢山は置けませんが小さなものなので、その長火鉢の

上に丁寧に置いていきました。

長火鉢には引き出しがついていて、引き出しの中には、

におい袋が入っていたのかでしょうか、とても上品な

香りがかすかにしています。

硯の蓋は以前、ご主人の関係の木工をされている方に

作っていただいたようですが、裏面の硯と接触する部

分が平らで、墨が硯に入っている状態だ と蓋をしたと

きに汚れるので、蓋の裏を凹ませてほしいという内容

でした。

水滴台は木で出来た古い中国製です。

それは、硯に水を適量入れる水滴を置く台です。

水滴の素材は白玉という白い石をくり抜いて作った物

です。

水滴台と、水滴は別々のところから 買い求めているた

め乗せてみると少しぐらつきがあり、そのため少しだ

高台に合わせて凹ませて、安定させてほしいという

ご依頼でした。

小さな仏頭は、首が安定しないので、首に合わせて台

を削って安定した新しい台を作ってほしいという内容

でした。

今までのいきさつから何を求めていらっしゃるのか想

像がつきましたので、即答でわかりましたと仕事を引

き受けました。

しかし、あまり細かい指示はなく5分ぐらいのやり取

りだったと思います。

これからもこのような形で、お付き合いしていくなど、

まだこの時点では、知る由もなかったのですが、 いつ

もいろいろな話を分かりやすく話されその内容が多岐

にわたり、情報収集は確かな事がが書かれているもの

を選んでいるようです。

様々な情報から、何か気になる物事を、中立な立場で

自分なりに考えて 読み解こうとしていまいた。

体何をしているのか、さっぱりわからないですが、

あまり詮索するのは好きではありませんが、ご主人も

詮索をしてこないの で、それがとても居心地の良い

ように感じていました。

 

 

 

胎蔵界 87 般若菩薩尊像

般若菩薩尊像 (プラジニヤーパーラミター)

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こちらの菩薩さまは般若菩薩(はんにゃぼさつ)と

呼びます。

持明院の真ん中に佇んでいます。

お顔にはもう一つ目があります。

腕は六本あります。

左手の第一手は梵きょうをもち臍の前に置きます。

第二手は手のひらを仰げて臍の下に安じます。

第三手は頭指を屈します。

 

右手の第一手は持華印を結び。

第二手は施無畏印にし膝にあてます。

第三手は掌を立て薬指を屈します。

般若菩薩は仏の智慧を本質とする尊で三つの目は

真実を観る般若菩薩の智目で仏部、蓮華部、金剛

部の三部の徳を表すようです。

また六本の腕は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・

智慧の六波羅蜜を意味し福徳と智慧の円満を示す

ようです。

                                                                                合掌

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胎蔵界 23 馬頭観音尊像

胎蔵界

馬頭観音尊像  (梵名:ハヤグリーヴァ)

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久しぶりの曼荼羅の投稿です

この菩薩さまは、お馴染みの方もいらっしゃると

思いますが、馬頭観音(ばとうかんのん)です。

蓮華部院向かって右の一番下に佇んでいらっしゃ

います。

三面二臂、(お顔が三つに二本の腕)で各お顔には

額に目があります。

手の組み方は馬頭印というこの尊独特の印相をし

ています。

右ひざを立てて、白い馬の頭を頭上に戴きます。

梵名の意味は「駿馬の首をもつもの」で、インド

の起源が求められ、ヴィシュヌ神の第18番目の化

ともいわれます。

『大日経疎』では転輪聖王の宝馬はいつ、どこで

も休むことなく疾駆するように、身命をおしまず

衆生を救おうとする菩薩の大いなる、精進力にた

とえられています。

蓮華部院という中で唯一忿怒形をしています。

特に馬頭観音は衆生救済の思いが強いのでそのた

め だといわれています。

                                                                             合掌

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二張の和傘 10 ー懐かしのオルヴァルー

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昨日、ベルギービールを初めて飲んだ時のことを書い

ていると、無性に飲みたくな ってきました。

早速、やまやまで買いに行って、当時のことを思い出

だしながら、ソーセージと一緒にいただきました。

ご主人の自宅に私が行き始めた時はベルギービールに

凝っていた模様で様々な種類を 試行錯誤して飲んでい

らっしゃいました。

 数あるベルギービールの中で、デュベル、シメイ(ラ

ベ ルが赤と白と青の三種類)、オルヴァルその他 忘れ

ましたが、何種類か冷蔵庫に用意されていてタイミング

よく私はいろんなビールを試飲させていただきました。

 

最終的にオルヴァルに落ち着いたようで、冷蔵庫の中に

は紫のラベルがで詰まっていました。

 

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オルヴァルは特に濃厚な味のビールなので、その他、軽

くて飲みやすいバドワイザー、それと美味しいほうじ茶

をいただき ました。

特に、ほうじ茶はどこのメーカーなのだろうかとずっと

気になっていました。

それだけ、とくに美味しいとお茶だと印象に残っていた

のですが、しばらくしてから、福寿園のほうじ茶だとい

うことがわかり私も家で良くいただくようになりました。

私の弟は酒蔵で杜氏の仕事を手伝っているので、ベルギ

ービールの話をしてみると、飲んだことがあるらしいの

ですが合わなかったようです。

私のようにお酒は美味しいけど沢山飲めない人は、濃厚

なビールを少しだけいただくのがちょうど よいのかもし

れませんが、弟は沢山飲むので、軽くて飲みやすいビー

ルのほうが、たくさん飲める人には良いのでしょう。

御婦人方はあまり、余計なことは喋らず、ご主人のこと

を、お兄ちゃんと呼んでいたので、私は、もしかして ご

兄妹なのかと思っていました。

お客さんとご主人との会話を邪魔しない配慮や、自分の

意見を割り込んで話さないところがあるのですが、とて

も 存在感があり、お互いがお互いを、引き立てあってい

る、そんな感じに思えました。

御婦人方は時間の経過とともに、徐々に足が動きにくくな

ってきていて、この時は、まだ辛うじてご自身で歩くこと

はできましたが、 そのせいか、家の中で食べる機会が多く

なり、外食する割合も随分と減っていたようです。

 

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二張の和傘9 ー最澄とベルギービールー

二張の和傘9 ー最澄とベルギービールー

平安時代

日本の三筆として嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢があ

げらます。

その中でも傑出して弘法大師が有名ですが、書の世

界では弘法大師の華々 しい陰に隠れて最澄は見過ご

されています。

私は、書道の手本については、先生から渡されたも

のを使用して、そのまま何も 考えずにただただ真

をして書いていました。

しかしご主人、「最澄の書は上品で、優雅な字を書

いているのだけどそれは性格にも表れているんです

よ。」とおっ しゃり、私はどのような字だったか

全く思い出せないというより、あまり意識していな

かったので全くわからなかった。

最澄の父親は中国から渡ってきた帰化人ですが近江

の国(滋賀県)に生まれています。

エリート出身の最澄は、遣唐使船にも潤沢な準備で

のぞんでいました。

遣唐使船で中国へ渡り、生きて帰れるかわからない

非常に危険な航海でしたが最澄は天台数学や真言密

教、など全般的に日本に持って帰りました。

余談ですが、実際には古代人の航海術は我々が想像

している以上に発展していて、中国へも自由に行き

来していたようです。

ではなぜ、遣唐使船、4隻のうち1隻しか無事に航海

できないといわれてるように危険だったのでしょう

か。

それは、占い師の権威が高く、航海をする手段はす

べて占い師が 決定していた事が大きいようです。

 

出発日時や航路など、占いのみをもって決められて

いたようでは、唐へ渡る 人々もたまったものではな

かったと思いますが、船についても体裁だけ整えて

いるため、ちょっとしたはずみで船底から海水が浸

入してくるといった状態でした。

もしかしたら島民に連れて行ってもらったほうが、

安全だったかもしれません。

彼らは、長い経験と感覚で、リスクのある無謀な航海

はしなかったことでしょう。

 

私は、エリートとは無縁の世界で生きてきました。

そういうことから、何の支援もないような境遇から自ら

努力して這い上がり、権威に対してそれに打ち勝つよう

な物語は 好きでよく見ました。

また主人公に感情移入して一喜一憂しながら観戦するの

はとても盛り上がります。

しかし、それにこだわりすぎると、逆に物を素直に見え

にくくしていることにもなります。

司馬遼太郎が書いた空海の風景を読んで、私は空海の泥

臭さ人間的魅力に魅せられましたがその対比として 最澄

があげられているところもありますが、最澄も努力をし

ていないわけではありません、非常に地味かもしれませ

んが、年下の空海に頭を下げて、真言密教の神髄の教え

を乞うといった素直さや心の余裕を感じさせます。

それが、字に表れているようです。

私はご主人と御婦人方、三人でベルギービールとピザを

頂きながら、しばらく書の話で話題がつきませんでした。

実はこの時、初めてベルギービールをいただきます。

修道院で作られた麦芽100%のビールは、とても濃厚で

贅沢な味でした。

食後には北京ガラスの小さな鉢に アイスクリームと

イフルーツをいれて目の前に用意していただきました。

その上にベルギービールをかけて食べるのがご主人の

物で、私も試しに頂きましたが、いままで食べたこと

ない味で美味しかった。

これは普通のビールだと、あっさりしすぎて薄味になりま

すが、ベルギービールの濃厚な味はアイスの甘さにはちょ

うどよい具合です。

ただ、カロリーも桁違いですが。

                                                                                         続く

 

盆石 1 ーお盆の木地ー

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盆石 1 -御盆の木地ー

 

昨年、知り合いのお寺さんから、盆石用の御盆を作って

いただけないでしょうかとご依頼がありました。

あまり聞きなれない、盆石という遊び、 実は何度か私

はそのお寺でお盆に砂で描かれた絵を見ていたのですが

そういういきさつから改めて盆石を知ることになりまし

た。

日本人には馴染みが薄く、知っている人も少ないようで

周りの人にも聞いてみたら、日本ではなくスペインで日

本の盆石展があってそれを見たと、いう人もいました。

 

盆石は真黒の楕円形の漆の御盆の中に様々な風景を砂を

使って表現する砂絵です。

漆の深い黒を白の砂が入ることで黒はさらに深みが出て、

海岸になったり、霧がかっている山になったり、描く人

により 絵に特徴があらわれたりして見ていると私も思わ

ず挑戦してみたくなりそうになります。

お寺さんは90年ほど前の真黒の楕円のお盆を使ってい

ますが、そのお盆が大変お気に入りなので同じ形のお盆

をいくつか そろえていきたいと、以前から考えておられ

市販の御盆では思っていたようなものが無いので、私に

木地だけ造ることは可能ですか、 と依頼がありました。

 

それで、私より適した、指物師に木地をおまかせしまし

た。

漆のほうではお寺さんの知っている方がいらっしゃる事、

私は傍目でそのやりとり傍観していました。

頼んであった木地が昨日、出来上がりましたので、私も

一緒に見に行きました。

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木地の状態は杉板の正目で、木目もまっすぐ、きれいな

状態、漆を塗るのはもったいないくらいです。

3枚作られましたので、元々の一枚を合わせると完成時

には春夏秋冬それぞれの風景を一堂に並べることができ

ます。

漆は沢山年を重ねると、その性質上黒の漆でも少しずつ

透明感がでてきますので角度をつけてみると、少し木目

が見えて、 それがまた漆好きの心をゆさぶります。

古いものを集められ、眼が肥えた方でしたがとても満足

しておられ私も安心しました。

 

今は木地の状態ですが、今後さらに漆職人の手に移り、

完成時のお盆が今から楽しみです。

そんな盆石、資料は少ないようですが歴史は古く、唐

・漢の頃、占景盤或は縮景盤と称された技術が推古天

皇の頃、伝えられたようです。

それが天武天皇(在位673~686)により日本の

盆石として完成され、お茶やお花と同様に宮廷の 女官

たちの間で流行っていました。

天武天皇以降の盛衰については不明な点が多く、次に

盆石が登場するのが室町時代です。

足利義政のころに再興され以来、活発に行われてきた

といいます。

江戸時代の文化文政のころには、盆に詠歌を添えるこ

とが流行していました。

 

戦後、衰退の様子をみせたものの、折からの日本伝統

ブームの中で少しずつ活力を盛りかえし今に至ってい

ます。

                                                                                        続く

二張の和傘 8 ー四大名硯ー

 

 二張の和傘 8   ー四大名硯ー

記録によればその9日後に和傘の主人のお宅にお邪

魔をしていることになります。

以前見せていただいた硯以外にも、沢山の硯を所有

れていました。

中国には4大名硯と呼ばれる、端硯 歙州硯、澄泥

硯、魯硯、(一般的には魯硯ではなく洮河緑石硯と
いわれています。)

は、すでに試行錯誤しながら使われていたようで、

その他にも松花江緑石という緑の硯、や陶器ででき

た陶硯、など様々な種類の石質を使いながら試行錯

誤してお気に入りの 数枚を、 手元に置き、あとは

手放すという作業されているようでした。

私が二回目にお邪魔した時には確か3面ほど硯を頂

きました。

素晴らしい硯なので、頂くのに遠慮しがちでしたが、

ご主人「いらなければ 粗大ごみにでも出してくださ

」とあっさり一言 、私はありがたく頂戴した次第

でございます。

それに、ご主人すでに今後、使用しないだろうと見

切っていたのでしょう。

出し惜しみせずあっさりと手放すところに、物に振

り回されない人とはこういう人なのかと 少し経過し

てから、思いました。

いただいた面のうち一枚は以前からほしいと思ってい

た端渓の硯、とても石質がきめ細かく上品な色をして

墨をする感触もとても良いです。

 

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習字をならっていたので硯は以前よりありましたが私

が前から使っていた硯は 父にプレゼントして、この日

以降、端渓を持って習字 を習いにいっていました。

「弘法筆をえらばず」という言葉があります。

確かに道具と字を書く技術は関係ないかもしれませんが、

気分が全然違います。

ただ単に書くだけだと、字を書くことが淡々と仕事をこ

なすような労働をイメージしますが きっちりと硯、筆、

筆置き、水滴、水滴台、文鎮、墨、墨床、にこだわり、

それらをバランス よく配置して前に座ると、茶道のお

点前のように、文鎮で半紙を押さえ、水滴から 水を一

滴ずつすくい取り、硯に適量いれ、墨をすり、字を書く、

硯を綺麗に手入れをする という一連の作業が、無量の喜

びに思えます。

日本では刀が武士の魂だといわれるように、中国では硯

が文人の魂だといわれるゆえんです。

京都醍醐寺の三宝院に所蔵されているお大師さま直筆の

古文書 性霊集の献筆表には 筆を筆工に楷書用、行書

、草書用、写経用に分けて作らせていたり、 字によっ

は筆を取捨選択すべきと記されています。

実際には選ばずどころではないことがわかります。

良工は先ずその刀を利くす。

能書は必ず好筆を用いる

が本当のようです。

私はその後、何度となくお宅に訪問してその間、合わせて

10面ほど硯を頂きましたが、私の硯の知識はこの時期に

培われたものです。

今度は私がかっこつけて、誰かにさし上げる日がいつか来

るのだろうか。

まだまだ、私は物にもて遊ばれている半人前ですね。

        続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二張の和傘 7 ー記録ー

二張の和傘 7   ―記録―

二張の和傘を、書き始める前に幕末維新回顧談を電子

書籍で読んでいました。

実は電子書籍で本を読むことには抵抗をかんじていた

のですが、参考程度にと青空文庫のアプリを 入れて検

索をしてみたら、高村光雲の書籍まで入っているとは

思ってもみなかったので早速 ダウンロードをして、読

んでみました。

 

光雲の生まれた江戸の町並みが本人の言葉で表現され

てとても面白かったので、 後で本を購入して読もうと

思っていましたが、その前に読み終えてしまいまいた。

 

それは丁稚奉公の様子や美術学校時代教授として活躍

したいきさつ、あの老猿の制作風景、 そして晩年に至

るまでを、光雲の本人の語りを、長男である高村光太

郎と 田村松魚が聞き、主要箇所をまとめて書き記した

ものです。

 

一方的な見方なので様々な見解もあるかもしれません

が木彫家、高村光雲の本人の生 の記憶がそこには凝縮

され、その当時の息遣いが感じられて私にとっては 興

味をそそる内容でした。

 

師匠である仏師の高村東雲師の下で丁稚奉公をしていた

時、制作において図面を書く人、図面を もとに木割を計

算する人、それから仏師に引き渡されて彫刻が始まりま

す。

今では一人でする作業です。

分業化が進んでいたとは聞いていましたが、思っていた

以上に一体の仏像を仕上げるまで の工程が細分化されて

いました。

 

その当時は幕末であり、後の明治の廃仏毀釈で、仏像の装

飾で使われている金 を手に入れるために、本当に仏像が燃

やされていました。

 

また丁稚奉公時代に 光雲が見本としていた仏像が燃やされ

そうになったのを必死で守ろうと 微力ながら奮闘する仏師

たちの活躍ぶり、その後、木彫が廃れ、それに代わり 牙の

彫刻に転職する同業者たちをしり目に、光雲は数少ない木

彫作家として、あくまで木彫り にこだわっていました。

 

丁稚奉公という枠にこだわらず、多くの弟子を育て、木彫り

の技を次世代に残して いきました。

 

それを、どうして私が知ることになったのかは、ご存じのと

おり言葉を残してきた人がいたからです

 

今から50年後には、まったく新しい3D加工がすでに 多く

の人々が自由に使える時代が来ることでしょう、さらに木彫

やそのほかの昔から伝わるの 技術も廃れているかもしれませ

ん。

 

私は無名の彫り師です。

無名であることは悪いことばかりではありません、実は非常

に自由です。

それをフルに利用し、自由に私が見聞きした事などを どんど

ん書いていこうと思っています。

 

二張の和傘は、ご主人と私の10年間の語りですが、ご主人

の江戸の気風が残る実家のお爺さん から聞いた話、また 一

緒に硯についての実験をしたいきさつやら、その結果を余す

ところなく披露していく予定です。

 

また仏像彫刻においては自由で新しい発想の仏像はできるだ

け控え、本来持っている仏像の美しさ を、表現する方法など、

微力ながら、私なりに書き記す予定です。

 

万人向けではないと思いますが、極々一部の人の心に残れば

何よりとおもいます。

           続く

 

 

二張の和傘 6 ―王義之 蘭亭序―

 

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二張の和傘 6  -王義之 蘭亭序 -

書道に志のある人なら知っている方も、いらっしゃる

かもしれません。 行書の神様と称される王義之。 中で

も蘭亭で歌会の催しが行われる直前、その場の日時、景

色や空気感、集まった人々、など 即興で記録したもの

ですが、本来ならば、後日きっちりとした形で整理記

録していくものです。

 

しかし即興で書き記したその文字の美しさ高い芸術性、

は歴代皇帝が愛してやまない、中国の宝と なりました。

 

今や世界中で認められ、また、草書の神様として、日

本でも蘭亭序を手本に、多くの書道家が 愛用しており

ます。

 

最近では、王義之の書が日本で発見されたとして大い

に盛り上がりました。

しかし私は当時、それほど王義之について詳しく調べ

たこともなく、書道も習ってはいたのですが、 行書の

神様という程度にしか認識がありませんでした。

 

ご主人との会話の中、硯の話はひとまず、さておき、

自然と道具から、道具を使って書くこと について話が

移動しました。

ご主人の知人に、小学校か中学校か高校かわかりませ

んが、字が大変上手な生徒がいました。 先生から、将

来、書道家になると大成すると言われ、書家になりま

した。

 

もともと裕福な家庭に住んでいたので、書家になるこ

とで食うに困ることはありませんでした。

またそういう人は字にも余裕が現れるもの、どうして

も日々の生活に困っているような状態 ではそれが字に

現れてしまう。

何かを作り上げる人の心の状態は余裕があるに越した

ことはなく、やはり切羽詰ったような 状態ではなかな

か良いものを作りあげるのは難しい。

 

その書家は、かならず毎日、蘭亭序を一枚書きあがる

のが日課で、どんなに深酒をしても、書きあげていき

ます。

おそらく数千枚は書いていると思いますが、それでも、

王義之に及ばずの心境だったようです。

当時、日本でいう地方公務員としての王義之が親戚一

同、友人知人をまねいた歌会を代表して 取り仕切り、

お酒が入っていたのかどうか定かではありませんが、

即効で書いた記録が 1700年後の今に至るまでお手

本として、使われるなんてことおそらく王義之は思っ

てもみなかったと思います。

 

ご主人は最近まで日本は中国から沢山学んできました。

遣唐使船が行き来していた時代の話ですが、 なぜ日本

人が中国人より優れているという事を言ってしまうの

か、 唐の時代、日本人が中国の文明を吸収しようと努

力していた過去があり、また時の皇帝は実に寛大であり

ました。

それを忘れ日本人は中国人より優れていると言ってしま

う所に危険性と先進国としてあるまじき小さな了見を も

っていることの恥ずかしさを感じておられるようです。

 

まだまだ話しがつきませんが、そうこうしているうちに

時計の針がかなり進んでいたことに気づきました。

お礼を伝え帰路につきましたが途中、思い返してみると、

なんてゆったりとした時間の流れだったのだろうか、私

は居心地の良さにまた何時か お会いできないだろうか、

と図々しくも思った次第であります。

そういえば仕事の話を聞いていなかったのを、少し時間

がたってから気付きました。

                                                        -プロローグー 完

 

 

 

二張の和傘 5 ー端渓硯ー

 

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二張の和傘 5         ―端渓硯―

三人でお話をしていると書道具についての話題になり

ました。

ご主人には書道具については並々ならぬ思いがあり、

私もレベルの差こそあれ よい硯を手に入れたいと考え

ておりましたので、中国硯についての見識を聞くこと

なりました。

日本では、主に端渓の硯がもてはやされておりますが、

硯の材料である石が採 掘された端渓地方は深山幽谷と

形容される美しいこの場所で原石が掘り出されます。

様々な種類がありますが、中でも一定の範囲内で川の

底から掘り出した「水厳」 と称される石が最高級とさ

れております。

唐代から掘り起こされ、宋代では量産されるようにな

り、その時に日本にわたってきた ようであります。

およそ室町時代ぐらいでしょうか。

墨をする面の研ぎ面は鋒鋩(ホウボウ)と呼ばれ、石

の質で細かいものから荒いものまで ありますが中での

端渓はとても粒子が細かく、日本のかな文字を書くの

に 大変向いているとされています。

そんな中私は、ご主人から硯を見せていただきました。

それは明代の太子硯で、石は歙州硯(きゅうじゅうけ

ん)という石質です。

端渓ばかりに気を取られていたせいか、ほかの石質の

硯については無頓着でした。

太子硯は明の書官が記録をするために使われた硯で、

重さもずっしりとして、 広い硯面、そして歙州硯の特

徴として、鋒鋩の目が粗いので、墨が早くおりる 実用

的な硯です。

ラストエンペラーでおなじみの最後の皇帝、溥儀がで

てきますが、 それより以前は中国のものに対する強い

こだわり 芸術に対する奥行、幅の広さは、太刀打ちで

きるものではなくまた、日本人は賢く器用であること

は認めてはいましたが 簡単に世界一という風潮にはど

ちょっと言い過ぎではないだろうかと、思っておられ

る様子で、常に世界から見た日本はどのように 映って

いるのか、 外国人のリップサービスに調子に乗ってし

まわないか、そういったことに危惧されておりました。

つまり文化レベルの高い先進国においては、自分では

世界一など一切言わないということです。

日本の着物を着こなし諸道具に至っては尋常ではない

ほどのこだわりがあるにも関わらず 一度として自慢さ

れるのを私は聞いたことがなかった。

                                                                                            続く