二張の和傘 11 -仕事の依頼ー

 

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二張の和傘 11 -仕事の依頼ー

食事も済んで,ご主人おもむろに硯の蓋と水滴と水滴

台、そして高さ2センチぐらいの小さい中国清朝の頃

の石でできた緑の仏頭を 取り出しました。

それが初めての仕事の依頼だとすぐにわかりました。

 

私が食事をしていた机は、けやきと黒檀で出来た、

火鉢の上に1.5センチぐらいの厚みの板を上から載せた

小さな机を使っていました。

上から見ると長方形の形をしています。

沢山は置けませんが小さなものなので、その長火鉢の

上に丁寧に置いていきました。

長火鉢には引き出しがついていて、引き出しの中には、

におい袋が入っていたのかでしょうか、とても上品な

香りがかすかにしています。

硯の蓋は以前、ご主人の関係の木工をされている方に

作っていただいたようですが、裏面の硯と接触する部

分が平らで、墨が硯に入っている状態だ と蓋をしたと

きに汚れるので、蓋の裏を凹ませてほしいという内容

でした。

水滴台は木で出来た古い中国製です。

それは、硯に水を適量入れる水滴を置く台です。

水滴の素材は白玉という白い石をくり抜いて作った物

です。

水滴台と、水滴は別々のところから 買い求めているた

め乗せてみると少しぐらつきがあり、そのため少しだ

高台に合わせて凹ませて、安定させてほしいという

ご依頼でした。

小さな仏頭は、首が安定しないので、首に合わせて台

を削って安定した新しい台を作ってほしいという内容

でした。

今までのいきさつから何を求めていらっしゃるのか想

像がつきましたので、即答でわかりましたと仕事を引

き受けました。

しかし、あまり細かい指示はなく5分ぐらいのやり取

りだったと思います。

これからもこのような形で、お付き合いしていくなど、

まだこの時点では、知る由もなかったのですが、 いつ

もいろいろな話を分かりやすく話されその内容が多岐

にわたり、情報収集は確かな事がが書かれているもの

を選んでいるようです。

様々な情報から、何か気になる物事を、中立な立場で

自分なりに考えて 読み解こうとしていまいた。

体何をしているのか、さっぱりわからないですが、

あまり詮索するのは好きではありませんが、ご主人も

詮索をしてこないの で、それがとても居心地の良い

ように感じていました。

 

 

 

二張の和傘 10 ー懐かしのオルヴァルー

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昨日、ベルギービールを初めて飲んだ時のことを書い

ていると、無性に飲みたくな ってきました。

早速、やまやまで買いに行って、当時のことを思い出

だしながら、ソーセージと一緒にいただきました。

ご主人の自宅に私が行き始めた時はベルギービールに

凝っていた模様で様々な種類を 試行錯誤して飲んでい

らっしゃいました。

 数あるベルギービールの中で、デュベル、シメイ(ラ

ベ ルが赤と白と青の三種類)、オルヴァルその他 忘れ

ましたが、何種類か冷蔵庫に用意されていてタイミング

よく私はいろんなビールを試飲させていただきました。

 

最終的にオルヴァルに落ち着いたようで、冷蔵庫の中に

は紫のラベルがで詰まっていました。

 

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オルヴァルは特に濃厚な味のビールなので、その他、軽

くて飲みやすいバドワイザー、それと美味しいほうじ茶

をいただき ました。

特に、ほうじ茶はどこのメーカーなのだろうかとずっと

気になっていました。

それだけ、とくに美味しいとお茶だと印象に残っていた

のですが、しばらくしてから、福寿園のほうじ茶だとい

うことがわかり私も家で良くいただくようになりました。

私の弟は酒蔵で杜氏の仕事を手伝っているので、ベルギ

ービールの話をしてみると、飲んだことがあるらしいの

ですが合わなかったようです。

私のようにお酒は美味しいけど沢山飲めない人は、濃厚

なビールを少しだけいただくのがちょうど よいのかもし

れませんが、弟は沢山飲むので、軽くて飲みやすいビー

ルのほうが、たくさん飲める人には良いのでしょう。

御婦人方はあまり、余計なことは喋らず、ご主人のこと

を、お兄ちゃんと呼んでいたので、私は、もしかして ご

兄妹なのかと思っていました。

お客さんとご主人との会話を邪魔しない配慮や、自分の

意見を割り込んで話さないところがあるのですが、とて

も 存在感があり、お互いがお互いを、引き立てあってい

る、そんな感じに思えました。

御婦人方は時間の経過とともに、徐々に足が動きにくくな

ってきていて、この時は、まだ辛うじてご自身で歩くこと

はできましたが、 そのせいか、家の中で食べる機会が多く

なり、外食する割合も随分と減っていたようです。

 

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二張の和傘9 ー最澄とベルギービールー

二張の和傘9 ー最澄とベルギービールー

平安時代

日本の三筆として嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢があ

げらます。

その中でも傑出して弘法大師が有名ですが、書の世

界では弘法大師の華々 しい陰に隠れて最澄は見過ご

されています。

私は、書道の手本については、先生から渡されたも

のを使用して、そのまま何も 考えずにただただ真

をして書いていました。

しかしご主人、「最澄の書は上品で、優雅な字を書

いているのだけどそれは性格にも表れているんです

よ。」とおっ しゃり、私はどのような字だったか

全く思い出せないというより、あまり意識していな

かったので全くわからなかった。

最澄の父親は中国から渡ってきた帰化人ですが近江

の国(滋賀県)に生まれています。

エリート出身の最澄は、遣唐使船にも潤沢な準備で

のぞんでいました。

遣唐使船で中国へ渡り、生きて帰れるかわからない

非常に危険な航海でしたが最澄は天台数学や真言密

教、など全般的に日本に持って帰りました。

余談ですが、実際には古代人の航海術は我々が想像

している以上に発展していて、中国へも自由に行き

来していたようです。

ではなぜ、遣唐使船、4隻のうち1隻しか無事に航海

できないといわれてるように危険だったのでしょう

か。

それは、占い師の権威が高く、航海をする手段はす

べて占い師が 決定していた事が大きいようです。

 

出発日時や航路など、占いのみをもって決められて

いたようでは、唐へ渡る 人々もたまったものではな

かったと思いますが、船についても体裁だけ整えて

いるため、ちょっとしたはずみで船底から海水が浸

入してくるといった状態でした。

もしかしたら島民に連れて行ってもらったほうが、

安全だったかもしれません。

彼らは、長い経験と感覚で、リスクのある無謀な航海

はしなかったことでしょう。

 

私は、エリートとは無縁の世界で生きてきました。

そういうことから、何の支援もないような境遇から自ら

努力して這い上がり、権威に対してそれに打ち勝つよう

な物語は 好きでよく見ました。

また主人公に感情移入して一喜一憂しながら観戦するの

はとても盛り上がります。

しかし、それにこだわりすぎると、逆に物を素直に見え

にくくしていることにもなります。

司馬遼太郎が書いた空海の風景を読んで、私は空海の泥

臭さ人間的魅力に魅せられましたがその対比として 最澄

があげられているところもありますが、最澄も努力をし

ていないわけではありません、非常に地味かもしれませ

んが、年下の空海に頭を下げて、真言密教の神髄の教え

を乞うといった素直さや心の余裕を感じさせます。

それが、字に表れているようです。

私はご主人と御婦人方、三人でベルギービールとピザを

頂きながら、しばらく書の話で話題がつきませんでした。

実はこの時、初めてベルギービールをいただきます。

修道院で作られた麦芽100%のビールは、とても濃厚で

贅沢な味でした。

食後には北京ガラスの小さな鉢に アイスクリームと

イフルーツをいれて目の前に用意していただきました。

その上にベルギービールをかけて食べるのがご主人の

物で、私も試しに頂きましたが、いままで食べたこと

ない味で美味しかった。

これは普通のビールだと、あっさりしすぎて薄味になりま

すが、ベルギービールの濃厚な味はアイスの甘さにはちょ

うどよい具合です。

ただ、カロリーも桁違いですが。

                                                                                         続く

 

二張の和傘 8 ー四大名硯ー

 

 二張の和傘 8   ー四大名硯ー

記録によればその9日後に和傘の主人のお宅にお邪

魔をしていることになります。

以前見せていただいた硯以外にも、沢山の硯を所有

れていました。

中国には4大名硯と呼ばれる、端硯 歙州硯、澄泥

硯、魯硯、(一般的には魯硯ではなく洮河緑石硯と
いわれています。)

は、すでに試行錯誤しながら使われていたようで、

その他にも松花江緑石という緑の硯、や陶器ででき

た陶硯、など様々な種類の石質を使いながら試行錯

誤してお気に入りの 数枚を、 手元に置き、あとは

手放すという作業されているようでした。

私が二回目にお邪魔した時には確か3面ほど硯を頂

きました。

素晴らしい硯なので、頂くのに遠慮しがちでしたが、

ご主人「いらなければ 粗大ごみにでも出してくださ

」とあっさり一言 、私はありがたく頂戴した次第

でございます。

それに、ご主人すでに今後、使用しないだろうと見

切っていたのでしょう。

出し惜しみせずあっさりと手放すところに、物に振

り回されない人とはこういう人なのかと 少し経過し

てから、思いました。

いただいた面のうち一枚は以前からほしいと思ってい

た端渓の硯、とても石質がきめ細かく上品な色をして

墨をする感触もとても良いです。

 

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習字をならっていたので硯は以前よりありましたが私

が前から使っていた硯は 父にプレゼントして、この日

以降、端渓を持って習字 を習いにいっていました。

「弘法筆をえらばず」という言葉があります。

確かに道具と字を書く技術は関係ないかもしれませんが、

気分が全然違います。

ただ単に書くだけだと、字を書くことが淡々と仕事をこ

なすような労働をイメージしますが きっちりと硯、筆、

筆置き、水滴、水滴台、文鎮、墨、墨床、にこだわり、

それらをバランス よく配置して前に座ると、茶道のお

点前のように、文鎮で半紙を押さえ、水滴から 水を一

滴ずつすくい取り、硯に適量いれ、墨をすり、字を書く、

硯を綺麗に手入れをする という一連の作業が、無量の喜

びに思えます。

日本では刀が武士の魂だといわれるように、中国では硯

が文人の魂だといわれるゆえんです。

京都醍醐寺の三宝院に所蔵されているお大師さま直筆の

古文書 性霊集の献筆表には 筆を筆工に楷書用、行書

、草書用、写経用に分けて作らせていたり、 字によっ

は筆を取捨選択すべきと記されています。

実際には選ばずどころではないことがわかります。

良工は先ずその刀を利くす。

能書は必ず好筆を用いる

が本当のようです。

私はその後、何度となくお宅に訪問してその間、合わせて

10面ほど硯を頂きましたが、私の硯の知識はこの時期に

培われたものです。

今度は私がかっこつけて、誰かにさし上げる日がいつか来

るのだろうか。

まだまだ、私は物にもて遊ばれている半人前ですね。

        続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二張の和傘 7 ー記録ー

二張の和傘 7   ―記録―

二張の和傘を、書き始める前に幕末維新回顧談を電子

書籍で読んでいました。

実は電子書籍で本を読むことには抵抗をかんじていた

のですが、参考程度にと青空文庫のアプリを 入れて検

索をしてみたら、高村光雲の書籍まで入っているとは

思ってもみなかったので早速 ダウンロードをして、読

んでみました。

 

光雲の生まれた江戸の町並みが本人の言葉で表現され

てとても面白かったので、 後で本を購入して読もうと

思っていましたが、その前に読み終えてしまいまいた。

 

それは丁稚奉公の様子や美術学校時代教授として活躍

したいきさつ、あの老猿の制作風景、 そして晩年に至

るまでを、光雲の本人の語りを、長男である高村光太

郎と 田村松魚が聞き、主要箇所をまとめて書き記した

ものです。

 

一方的な見方なので様々な見解もあるかもしれません

が木彫家、高村光雲の本人の生 の記憶がそこには凝縮

され、その当時の息遣いが感じられて私にとっては 興

味をそそる内容でした。

 

師匠である仏師の高村東雲師の下で丁稚奉公をしていた

時、制作において図面を書く人、図面を もとに木割を計

算する人、それから仏師に引き渡されて彫刻が始まりま

す。

今では一人でする作業です。

分業化が進んでいたとは聞いていましたが、思っていた

以上に一体の仏像を仕上げるまで の工程が細分化されて

いました。

 

その当時は幕末であり、後の明治の廃仏毀釈で、仏像の装

飾で使われている金 を手に入れるために、本当に仏像が燃

やされていました。

 

また丁稚奉公時代に 光雲が見本としていた仏像が燃やされ

そうになったのを必死で守ろうと 微力ながら奮闘する仏師

たちの活躍ぶり、その後、木彫が廃れ、それに代わり 牙の

彫刻に転職する同業者たちをしり目に、光雲は数少ない木

彫作家として、あくまで木彫り にこだわっていました。

 

丁稚奉公という枠にこだわらず、多くの弟子を育て、木彫り

の技を次世代に残して いきました。

 

それを、どうして私が知ることになったのかは、ご存じのと

おり言葉を残してきた人がいたからです

 

今から50年後には、まったく新しい3D加工がすでに 多く

の人々が自由に使える時代が来ることでしょう、さらに木彫

やそのほかの昔から伝わるの 技術も廃れているかもしれませ

ん。

 

私は無名の彫り師です。

無名であることは悪いことばかりではありません、実は非常

に自由です。

それをフルに利用し、自由に私が見聞きした事などを どんど

ん書いていこうと思っています。

 

二張の和傘は、ご主人と私の10年間の語りですが、ご主人

の江戸の気風が残る実家のお爺さん から聞いた話、また 一

緒に硯についての実験をしたいきさつやら、その結果を余す

ところなく披露していく予定です。

 

また仏像彫刻においては自由で新しい発想の仏像はできるだ

け控え、本来持っている仏像の美しさ を、表現する方法など、

微力ながら、私なりに書き記す予定です。

 

万人向けではないと思いますが、極々一部の人の心に残れば

何よりとおもいます。

           続く

 

 

二張の和傘 6 ―王義之 蘭亭序―

 

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二張の和傘 6  -王義之 蘭亭序 -

書道に志のある人なら知っている方も、いらっしゃる

かもしれません。 行書の神様と称される王義之。 中で

も蘭亭で歌会の催しが行われる直前、その場の日時、景

色や空気感、集まった人々、など 即興で記録したもの

ですが、本来ならば、後日きっちりとした形で整理記

録していくものです。

 

しかし即興で書き記したその文字の美しさ高い芸術性、

は歴代皇帝が愛してやまない、中国の宝と なりました。

 

今や世界中で認められ、また、草書の神様として、日

本でも蘭亭序を手本に、多くの書道家が 愛用しており

ます。

 

最近では、王義之の書が日本で発見されたとして大い

に盛り上がりました。

しかし私は当時、それほど王義之について詳しく調べ

たこともなく、書道も習ってはいたのですが、 行書の

神様という程度にしか認識がありませんでした。

 

ご主人との会話の中、硯の話はひとまず、さておき、

自然と道具から、道具を使って書くこと について話が

移動しました。

ご主人の知人に、小学校か中学校か高校かわかりませ

んが、字が大変上手な生徒がいました。 先生から、将

来、書道家になると大成すると言われ、書家になりま

した。

 

もともと裕福な家庭に住んでいたので、書家になるこ

とで食うに困ることはありませんでした。

またそういう人は字にも余裕が現れるもの、どうして

も日々の生活に困っているような状態 ではそれが字に

現れてしまう。

何かを作り上げる人の心の状態は余裕があるに越した

ことはなく、やはり切羽詰ったような 状態ではなかな

か良いものを作りあげるのは難しい。

 

その書家は、かならず毎日、蘭亭序を一枚書きあがる

のが日課で、どんなに深酒をしても、書きあげていき

ます。

おそらく数千枚は書いていると思いますが、それでも、

王義之に及ばずの心境だったようです。

当時、日本でいう地方公務員としての王義之が親戚一

同、友人知人をまねいた歌会を代表して 取り仕切り、

お酒が入っていたのかどうか定かではありませんが、

即効で書いた記録が 1700年後の今に至るまでお手

本として、使われるなんてことおそらく王義之は思っ

てもみなかったと思います。

 

ご主人は最近まで日本は中国から沢山学んできました。

遣唐使船が行き来していた時代の話ですが、 なぜ日本

人が中国人より優れているという事を言ってしまうの

か、 唐の時代、日本人が中国の文明を吸収しようと努

力していた過去があり、また時の皇帝は実に寛大であり

ました。

それを忘れ日本人は中国人より優れていると言ってしま

う所に危険性と先進国としてあるまじき小さな了見を も

っていることの恥ずかしさを感じておられるようです。

 

まだまだ話しがつきませんが、そうこうしているうちに

時計の針がかなり進んでいたことに気づきました。

お礼を伝え帰路につきましたが途中、思い返してみると、

なんてゆったりとした時間の流れだったのだろうか、私

は居心地の良さにまた何時か お会いできないだろうか、

と図々しくも思った次第であります。

そういえば仕事の話を聞いていなかったのを、少し時間

がたってから気付きました。

                                                        -プロローグー 完

 

 

 

二張の和傘 5 ー端渓硯ー

 

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二張の和傘 5         ―端渓硯―

三人でお話をしていると書道具についての話題になり

ました。

ご主人には書道具については並々ならぬ思いがあり、

私もレベルの差こそあれ よい硯を手に入れたいと考え

ておりましたので、中国硯についての見識を聞くこと

なりました。

日本では、主に端渓の硯がもてはやされておりますが、

硯の材料である石が採 掘された端渓地方は深山幽谷と

形容される美しいこの場所で原石が掘り出されます。

様々な種類がありますが、中でも一定の範囲内で川の

底から掘り出した「水厳」 と称される石が最高級とさ

れております。

唐代から掘り起こされ、宋代では量産されるようにな

り、その時に日本にわたってきた ようであります。

およそ室町時代ぐらいでしょうか。

墨をする面の研ぎ面は鋒鋩(ホウボウ)と呼ばれ、石

の質で細かいものから荒いものまで ありますが中での

端渓はとても粒子が細かく、日本のかな文字を書くの

に 大変向いているとされています。

そんな中私は、ご主人から硯を見せていただきました。

それは明代の太子硯で、石は歙州硯(きゅうじゅうけ

ん)という石質です。

端渓ばかりに気を取られていたせいか、ほかの石質の

硯については無頓着でした。

太子硯は明の書官が記録をするために使われた硯で、

重さもずっしりとして、 広い硯面、そして歙州硯の特

徴として、鋒鋩の目が粗いので、墨が早くおりる 実用

的な硯です。

ラストエンペラーでおなじみの最後の皇帝、溥儀がで

てきますが、 それより以前は中国のものに対する強い

こだわり 芸術に対する奥行、幅の広さは、太刀打ちで

きるものではなくまた、日本人は賢く器用であること

は認めてはいましたが 簡単に世界一という風潮にはど

ちょっと言い過ぎではないだろうかと、思っておられ

る様子で、常に世界から見た日本はどのように 映って

いるのか、 外国人のリップサービスに調子に乗ってし

まわないか、そういったことに危惧されておりました。

つまり文化レベルの高い先進国においては、自分では

世界一など一切言わないということです。

日本の着物を着こなし諸道具に至っては尋常ではない

ほどのこだわりがあるにも関わらず 一度として自慢さ

れるのを私は聞いたことがなかった。

                                                                                            続く

 

 

二張の和傘 4

 

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二張の和傘4

表通りから細い路地に入るとおよそ10件ほど向かい

合わせて民家が建ち並んでいます。

町屋は少なく、立て替えた家が半数以上はあったと思

います。

表通りから入っていくと二件目にその方の自宅があり

ました。

大きな屋敷に住んでいるのではなく、こじんまりとし

た家で外観は、その家だ け1畳半ほどある花壇に一本、

中くらいの椿が植えてあり、冬支度の葵や 研草などそ

の他3種類ほど植物がバランスよく配置されていました。

どこに入っていたのかわからない上品なキーホルダーを

ご主人の着物からり出し、 とても分厚いヨーロッパ製

木の扉をご主人が空けると小さな玄関が現れました。

小さな空間でしたが古い中国の五本指の龍の瓦が一枚、

その前に小さなお花が 活けてありその横の扉を開ける

全体的にヨーロッパの調度品で、配置され 小さく細長い

ガラスケースの中には、ヨーロッパのアンティークカッ

プ、から アジア、日本の陶磁器、やグラスなど、実に様

々なお国の実用品がバランスよく 配置されており、私は

しばし、古い銀器のスプーンの細かな細工を、見いって

いました。

二階に上がると、打って変わって、畳のお部屋、広い床の

間には、江戸中期に活躍 した狩野古信の 小さな画が配置

されておりました。

掘り炬燵のある小さなテーブルの天板には根来塗りで誂え

られているので、それが和室の 空間のアクセントの役割も

果たしているようにみえます。

私たちは根来のテーブルに座り、しばらくすると御婦人方

がゆっくりと慎重に 階段を上がってきているのがわかりま

したが、足が少し難儀していたようだったので、 上がるの

にとても時間がかかっていたように感じました。

小さな御盆にバランス良く配置された三人分のお茶を持っ

てこられました。

三人分のお茶がちょうど入る大きさの使い込まれた上品な

漆塗りの御盆をゆっくりと畳の 上に置き一人ずつゆっくり

とお茶を配っていかれ、その間ふすまを開 ける仕草やお茶

の持ち運び方、あまりしゃべらない方でしたが、

並の人ではないような雰囲気を漂わせておりました。

なんというか、われわれが同じような動作をすることは簡単

かもしれませんが、何か違う。

色絵の古伊万里に入った煎茶を頂き、三人でしばらくゆっく

りとした時間の流れ を共有しながら、 ご主人の明るい語り口

の中から特に書の道具に関して非常に強 いこだわりが談笑の

なか感じました。

私は20代に入ったころからいつかは自分の宝となるような

硯、抹茶椀を ほしいと思っておりましたが、懐具合と相談し

ながら手に入れるにはまだ至っ ていませんでした。

硯に関しては中国の古端渓が、抹茶椀に関しては、古い朝鮮

系の御椀、もしくは古萩が良いと 漠然と考えていました。

そのような物を手に入れるのは難しいというのは重々承知の

上ですが、10年ほどゆっくりと探しもと めていければいつ

かは手に入るのではと悠長にかまえておりました。

                                            続く。

 

 

 

二張の和傘 3

 

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二張の和傘 3

私はしばらくお店の前で今までのいきさつを思い出し

ながら懐かしんでいました。

思いにふけっていると一瞬、時代劇の一幕をみてるよ

うな、錯覚にとらわれ 私の目の前に真っ赤な和傘が二

つ並んで目の前に現れました。

御二人とも着物姿がなんともいえず上品で、歩く姿を

しばし見入っていました。

 

御婦人方は歩くことに少し難儀していたご様子、それ

でもご夫婦そろって仲睦まじい様子が窺がえました。

それにしても年齢がさっぱりわからない、かなり年を

召しておられるのだと思いますが、とても表情が若々

しくまた色気を感じました。

 

こういう人もいるんだなあと、他人事のように思って

いましたが、その後ろから、骨董屋さんの彼がひょっ

こり現れました。

私の視界には彼が以前から入っていたはずですが、し

ばらく気づくのに時間がかかりました。

紹介したいというお客さんは和傘のお二方だと感じま

したが私は圧倒されているので、気持ちが戸惑ってい

ました。

和傘の旦那様はにっこりと明るい表情で「ようやく会

えました」と簡単なご挨拶をした瞬間、私は少し気分

が楽になり、外ではなんですからと、お店に入まし

た。

席に到着しワインが注がれると「それでは」と軽くグ

スを持ち上げ、軽く頭を会釈してお食事が始まりま

したが、いも私が乾杯をする行為と違うなと少し戸

惑いを感じました。

 

後で知りましたが、一般的にはグラス同志、軽くたた

て乾杯がはじまりますが 、あまりそういう行為がお

好きでないご様子、どちらが上品に見えるか、いち

お試しあれ。

 

私もその一件以来、知人と乾杯をするとき、合わせる

のが大変です。

 

御食事中、骨董屋の彼と御主人が中心となってお話を

されていましたが、ものに対するこだわりが尋常では

ないのがお話の中から伺い知ることができました。

 

事前に何か修理を頼みたいと彼を通じて伺っていました

が特にその話もなく、御婦人方はその旦那さんを引き立

てるような形で、ほとんど喋ることはありませんでした。

 

私はお二人の立居振舞いを見ているだけでそれでおなか

がいっぱいになりお食事の内容が思い出せずにいます。

 

お店から出ると、自宅がお近くのようで「良かったら寄

って行ってください」と おっしゃっていただきましたの

で御自宅に伺うことにしました。

 

御婦人方は歩きにくいご様子5分以上ほどかけてゆっくり

と到着しました。

残念ながら小雨はすでに止んでいて、和傘を差したお姿を

拝見するのはこれが最後となります。

                               続く

 

 

 

 

 

二張の和傘 2

二張の和傘 2

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私は当時も今も変わらないのですが、どこへ行くにも

市内は自転車で移動します。

移動といっても距離に限りはありますが、東は山科、

西は天神川あたりまででしょうか、それでも直線距離

にして10㎞はないと思います。

それで、通勤中もよく自転車を利用していました。

仕事が少し早く終わりいつものように 帰り道を走って
いました。

その日は川端二条をまっすぐ西へ走っていたのですが

まだ閉店していない骨董屋さんが目に入り、足は自然

とお店のほうに向いていました。

おそらくお客さんが長居をしていたので、まだお店を

閉める事が出来なかったのだと思いますがす。

ビルの一階、ガラスの扉を開けて店内に入るとお客さ

んが備前焼の花入れを購入するかどうか思案している

最中でした。

購入されたのかどうかは、もう忘れてしまいましたが、

そのお客さんが出て行かれた後、私と店員さんの二人

になりました。

お店の方は後で知ったのですが、私より一つ歳が若く、

私が見てきた、骨董屋で一番の最年少の店員さんでし

た。

私は一人、店内を物色していたのですが、お店の方も
早く帰 りたいだろうし、気前よく大きな買い物をして

あげる ような身分でもありませんが、相手も見た目が

若い感 じの店員さんで、そのせいか話しかけやすく

直に「実は私用で素晴らしい傷物を探していて、それ

を直 して使いたいので、いろいろと探し回っているの

です 変なことを聞いてすいません」という旨お伝えし

まし た。

すると、店員さんは何か心当たりがあるような顔をし

「少し待っていてください」と奥から何点か持っ て

きました。

いずれも作家さんの作で骨董品ではありませんが、煎

茶用の急須に呉須(青い絵)の小皿など、いずれも骨

董とまではいきませんが、数点まとめて500円で即

購入することになりました。

お店の人からしてみれば処分に困っていたぐらいなの

で都合がよかったようですが、私もそのおかげで金継

の練習としても非常によい材料でした。

そういうことがいきさつで、その店員さんに事後報告

のような形で、何度かお店に遊びに行ってました。

彼も私も年齢が一つしか違わないので、気軽に伺って

は骨董の見方や偽物についての面白いエピソードを私

に話してくれました。

彼は、器を育てるために、自分の愛用の器を中国茶や

煎茶など並々と注いで、飲んでいるため、私が遊びに

伺っても並々と注がれたお茶が出てくる、しかも時に

は抹茶椀で出してくれるのでお腹がお茶で一杯になり

ます。

また、晩飯を一緒にすると、鞄の中から今日はこれで

飲みましょうとプチプチ(エアキャップ)に梱包され

ていた古い盃を丁寧に広げていくのでした。

いつも同じものではないのですが、最も古いものでは

800年ぐらい経過した高麗時代の器や中国清朝、明

、宋など彼が持ってきた器だけで中国の歴代皇帝が即

位していた時代を並べられるのではなかろうかと想像

を掻き立てられるのですが、なぜ彼はそれらを持ち歩

いているのかというと、古い器はかせてくるのですが、

それは、長年水分が器に入っていないので乾燥して艶

がなくなり色あせた状態になっています。

それが日本酒を入れてあげることで潤い少しずつ艶が

戻ってきます。

長時間、日本酒に浸しておけばと思いますが、こまめ

に使うことで器が上品に仕上がっていくそうです。

一度や二度で仕上がるものではないので、それこそ毎

日使ってあげて気が付いたら良い具合に仕上がってい

るのが理想です。

器のためにお茶やお酒を飲んでいるような気持ちにな

りますが私も好きなので酒の肴にではなく器を肴に話

に花が咲きます。

因みに盃に艶を戻す飲み物としては水よりも日本酒が

一番良いのだそうです。

私は何度か彼の器を金直ししたことがあるのですが、

彼のお知り合いの方で、普段の日常品を厳選して使わ

れている方がいてその方が私に会いたいという旨お話

を頂きました。

私は面白そうだと思い、快く引き受けましたが、3人

の都合のよい日程がつかずそれから半年ほど経過して

あの夕刻のフランス料理屋さんの前で待ち合わせをす

ることになりました。

続く