仏像を彫るとは

最近、私の同級生でこれからの生き方に悩んでいる人がたくさんいる事に驚く事がたくさんありました。

そして短期間に3人も身近で自殺未遂をした方と会う機会がありました。

私がまだ20代前半の頃、周りの同級生が普通に大学に行き就職して少しうらやましいなあと感じたり自分も普通の生き方をした方が良かったのではないだろうかと少し悩んだ時期がありました。
それから10年が過ぎさらに10年が過ぎようとしているこのタイミングで、仕事をやめていく人を何人か見ました。

受験勉強をこなして厳しい就職活動を乗り越えて、そこまでしてがんばったにもかかわらず、この年齢になって自分は何のために生きているのか、まるでロボットのように生きてきたようだと感じていたようです。
そういう人が私のように好きな仏像を彫っていることに、うらやましい感情を抱いていたようでしたが私は逆に安定した人生を歩んでいるということで安定していて羨ましいと感じていました。

しかし40近くなると人生に半分にさしかかります。
すると残りの半分の時間も予想がつくし寿命が80歳だと仮定すれば自分がどのように生き、どのように最後を迎えるのかも何となく想像がつきます。
かといって今更ながら生き甲斐を見つけるのも難しいと思います。

私は思うのですが、高校卒業したら一年間、何もせずにぼーとする時間が必要ではないだろうか。

もちろん大学もいかない仕事もしないことが条件で、心行くまでぼーと過ごす。

そんなことをしたらどうなるだろうか、親が心配する、近所の目が気になる、いわゆる世間体というものでしょうか、取り残される。

なぜ私たちは、こんなに人に認めてもらわなければいけないのだろうか、自分らしく生きるとは人から煙たがられる、気違いだと思われる、仲間はずれにあされる、孤独になることなのだろうか。

しかし人から認められようとすると日本では自分を偽らなければいけない事が多い事は事実です。

私は、一部の人が幸福になるような社会システムは不完全だと思っています。

多くの人が、自分という個と真剣に向き合い、同じように相手の個も大切にできるような、自立ある共生が必要なのではないだろうかと感じています。

今まで私は、平安時代、鎌倉時代の仏像を追い求めそれに近づこうとそればかり考えていました。

もちろんこれからも追い求めていくのは同じですが、釈尊は、個々の人たちの悩みを聞いて個々に合わせた解決方法を与えていたと聞きます。

それ故に釈尊の言葉は統一されていないところもありますが、しかし個々の人たちに幸せになってほしいという共通の認識があったのだと思います。

私は、人に幸せを与えられるような解決方法を雄弁に語る才能はありませんが、今友人のために香合佛を彫らせてもらっています。

途中段階ですが友人は香合佛を見た瞬間少し顔が和らぎました。

もし私の刻んだものが人の心を癒すためのお役にたてるものならば、これからも仏像を彫り続けたい。

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