奇麗な彫刻刀と彫るための用と美を兼ね備えた彫刻刀の違い

私が彫刻を始めた20年程前、初めてちゃんとした彫刻刀を購入した一本が三分の印刀でした。

その一本を使って、花菱(幾何学紋の花)を板に彫る練習をして、次に手足を彫るときは、3本に増えていました。

そして、次に顔を彫り、全身を彫るようになった頃には30本程になっていたと思います。

その頃の私の彫刻刀の柄は漆塗りに興味があったので、下地に赤を塗りその上から黒を塗り重ねて、固まってからペーパーで一部を強く擦り、所々下地の赤が見えるような柄を作って楽しんでいました。

その時は格好良いと思って使ってその漆塗りの柄を握り数ヶ月間彫刻をしていましたが、彫刻を教えていただいた仏師の先生の柄をみると、柄の表面は何も塗っていなくて彫刻で使える程度に粗く仕上げた彫刻刀の跡が残っていて、それが手で何度も何度も使っているうちに木の色も変わり落ち着いた風貌になっていました。

もちろん塗ってあるのもあったのですが、それも同じようにあまり奇麗に仕上げずに荒削りの状態の上から薄らと塗ってありました。

それらの柄は当初感じていた、粗雑な感じの印象だったのが変わっていて、その削り跡が素朴な味わいに見えてきました。

そのような事がきっかけで次に私がした行動は、彫刻刀の柄の漆を全部削り取って、素朴な味わいになるような柄を目指して、作りなおしていました。

その柄をしばらく使っていたのですが、どうも仏師の先生のような統一感のある素朴な雰囲気ではなく、アンバランスな苦心して素朴感をだしたようのな雰囲気になってしまいました。

いつの間にか私は仏像を彫るという事から、道具を美しく見せるという事に興味が移っていました。

沢山の道草をしてしまいましたが、たどり着いた結果、道具は仏像を彫るための補佐に過ぎないという事です。

どんなに高価な鋼を使おうが、道具に細工を施そうが、沢山の彫刻刀を集めようが、美しく洗練された仏像をさらに言えば仏像の高尚な表情が彫れる事が一番重要であるということです。

仏像を彫るための補佐的な彫刻刀ですが、以前にも書いたと思いますが、仏像を彫りながら、年月を重ねて、少しずつ手に馴染む個々人それぞれの道具に仕立てていく事が、控えめでありながら道具としての用と美を兼ね備えた道具に仕上がっていくのではないだろうかと最近ではそう感じています。

道具に限らず色々な道草を沢山したおかげで私は、仏像を彫れるようになるのに普通の仏師の1.8倍の年月が かかったように思います。

私の性格は、どっしりと腰を据えて一つの物事に取り込もうとしていても、あれもやってみたいこれもしてみたいと、結構いいかげんなところがあります。

そういうことで私のブログを読んでいただいている読者はもしかしたら、仏像を彫れるようになるのに普通の仏像彫刻のテキスト本と比べて2倍近く時間がかかるかもしれませんが、それは覚悟してください。

ゴールを先に延ばしにして余裕を持って、いろいろな経験を積みながら仏像が彫れるようになる方が、私は楽しく生きられるのではないかと思います。

私は道具に興味があるときは全力で道具に目を奪われる時期も必要だと思います。

美しい道具、沢山の道具を見せびらかして良い仏像が彫れると勘違いしてしまう可能性がありますが、別に勘違いしても良いのかなあとも思います。

あとで確実に勘違いしていたと恥ずかしくなるのは個々人の差はあるかもしれませんが時間の問題です。

それもまた苦い経験を沢山積んできたからこそ、これから彫刻を始める人に対しておおらかに優しく接する人間に成長できるのであれば、全てひっくるめて良い経験なのかも知れません。

 

合掌

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